京都市北区鷹ヶ峰の町並み
鷹峰光悦町・鷹峰土天井町・鷹峰上の町・鷹ヶ峰北木の畑町
地図


鷹ヶ峰土天井町の醤油屋さん

 京都から京北町周山を通り美山町・小浜市へ抜ける、国道162号線は周山街道の名で呼ばれているが、江戸時代の周山街道は鷹ヶ峰の長坂口から京見峠を越えて中川・周山に抜けていた。
明治19年から、測量が開始されて今では、福王寺から栂尾を通るルートになり、旧街道の利用が少なくなり、鷹ヶ峰地区は交通の幹線道から外れたのである。
元和元年(1615)に本阿弥光悦が徳川家康からこの地を拝領して一族が住み、鷹ヶ峰光悦町となって開発された。現在、光悦寺には元和4年(1618)から寛永4年(1627)の間と推定される鷹峰光悦町古図が残っている。これによると光悦町には京口に通じる南北の通りとこれに丁字型に交わる東西の通りに沿って55軒の町家が並んでいる。それらの屋敷には光悦をはじめとする本阿弥一族と蒔絵師土田了左衛門・土田宗沢・紙屋宗仁・筆屋妙喜・尾形宗拍・茶屋四郎次郎などの当代一流の芸術家や豪商の名がある。このように芸術家が多く居を構えたので光悦町は芸術村であった。又、彼らは熱心な日蓮宗の信者でもあったので、信仰を通して集住していたとも考えられ、学問・芸術・仏教の京都における一つの中心地として発展を見た。
鷹ヶ峰村は江戸時代を通じて、行政的には独立した一村とはされず、大宮郷の枝村紫竹大門村に属した。
寛政11年(1799)の鷹ヶ村の家数は168軒・人数383人であった。人数383人のうち尼1人・僧132人と僧侶が多いのは、本阿弥光悦一族の定住により、日蓮宗の瑞宝寺・常照寺・光悦寺・円成寺、浄土宗の吟松寺・、臨済宗の讃州寺、曹洞宗の源光庵などの寺庵が建立されたことによると思われる。
当地は京の七口の一つ長坂口を経て周山街道で、若狭・丹波方面から乾物・材木・薪炭などが運び込まれ、各種産物の問屋が軒を並べて物資の集散地及び宿場として賑わった。
しかし明治23年に周山街道(現国道162号線)付け替えが完成したことにより、物資の集散地としての機能はなくなり、京都郊外の山村にかえったのである。明治41年の戸数は145軒・人数1,034人であった。
古い町並は仏教大学北側、北木の畑町から旧街道をだらだらと登りながら、突き当たりの源光庵まで続く。大多数の古い伝統的な商家の建物は、江戸後期から明治時代に建てられたと思われる
切り妻造り、中2階建てもしくは2階建て虫籠窓を備えた商家の建物が続き、煙り出しを残した民家も多くある。
瀬戸内に多くある本瓦葺きの家は見られなかったが、格子や格子戸を残した民家も多かった。
この旧街道筋は近年拡張されたのか、京都市バスがすれ違うだけの広さがあり、交通量も多くその意味では市中と変わりないのだが、裏側には標高310mの鷹ヶ峰が迫った町で、鄙びた落ち着いた町並であった。
町並み指数 50
参考文献
  京都府の歴史散歩中  山川出版社  山本四郎  1995年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年
  京都市の地名  平凡社  下中邦彦  1979年 


鷹峰北鷹峰町の民家

鷹峰光悦町の町並

鷹峰南鷹峰町の町並

鷹峰上の町の町並

鷹峰上の町の町並

鷹峰上の町の町並

鷹峰北木の畑町の町並

鷹峰北木の畑町の町並
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