江戸初期に小出吉親が園部城を築城して以来、城下町として、山陰道の要衝として、また口丹波の政治・経済・文化の中心地として栄え、明治維新を向えた。 元和5年(1619)小出吉親が但馬出石(兵庫県)から入り、園部藩が成立した。小出吉親は元和7年(1621)から園部城の築城を開始した。南北600m・東西400mの城域が整備されたが、天守閣は造築されず園部陣屋があった。園部城下は、城郭が園部盆地の中央小麦山に位置し、北門の釘貫門から北に宮町が延び、東西に京街道が通り本町筋となる。西が上本町、東は本町その南に新町が造られた。宮町には銀札所・掛屋があり、城下の経済の中心地であり、本町・上本町・新町は京街道に沿う町家で、若狭との物資の交流が盛んであった。 元禄8年(1695)には武家屋敷77軒、町家6ヶ町(宮町・上本町・下本町・新町・裏町後に若松町・大村)430軒の規模となった。 城主は小出吉親のあと、一度の国替えもなく10代続いて明治維新に至っている。 慶応から明治維新への幕末の変動期、封建時代のシンボルである城郭が無用化し、諸藩とも廃城へと動くなか、園部城には大改築が加えられ、幕末期の慶応4年(1868)天守閣小麦山櫓が建造された。西郷隆盛らにより、幕府軍と砲火を交えることになった場合、明治天皇を山陰道から安芸・備後方面に還し、同時に諸国から勤皇の軍を募るという計画が立てられていた。こうした中で、園部城は明治天皇の臨時行在所と考えられたのである。 園部大橋から上本町の旧街道筋を歩き出した。旧街道は上本町、本町、新町と続き、旧街道がそのまま商店街になっている。古い町並みは本町・新町と伝統的な家屋が残っているが、商店街になっているため、古い家屋を隠す様に大きな看板が上がっていて、伝統的な妻入りの商家の建物が、隠されていて大変残念だ。 特に上本町に接した辺りの本町は、今でも賑やかな商店街であり、古い家並みが看板で隠されていたが、本町も新町に近づくと、賑やかさもなく落ち着いた町並みになり、看板で隠されることなく、古い町並みが現れてきた。 園部の町並みは、妻入りの商家の建物が多い。その意味では篠山市の河原町妻入り家屋商店街と類似している。 明治32年8月、京都鉄道(現JR山陰本線)が京都〜園部間に開通し、園部駅が造られて町は発展の契機をつかんだ。と表向きはそうだが、園部の中心部から歩いて15分もかかるところに駅を持ってきた。かっての篠山市と同様の考えだと思う、私の独断と偏見で見ると、多分この駅の設置では、鉄道が通ると火事が起こるとの理由で駅や線路を町から離れた所に造ったと思う。 駅の近くに町並みができたのはつい最近、昭和40年代に入ってからで、それまでは田んぼの中にポツンと駅のみがあった。 京都府の歴史散歩下 山川出版社 山本四郎 1995年 町並み紀行京都府 http://www.aasa.ac.jp/people/onomi/3610.html 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 |
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