西浅井町塩津浜の町並み 
塩津浜
地図


旧塩津街道塩津浜の町並
  琵琶湖北端の町、塩津と敦賀を結ぶ古道を「塩津越え」(塩津街道)と称し、現在の国道8号線にほぼ沿っていた。
平安時代初期から、越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の6ヶ国からの貢物はいったん敦賀に集らめ、それから陸路を塩津ないし海津に運び、さらに湖上を大津へ輸送し、京都へ運ばれていた。いわゆる古くから塩津街道は塩津浜から塩津中、沓掛、深坂を経て、越前敦賀とを結ぶ道で、琵琶湖は湖上交通路として大きな役割を果たしてきた。
塩津浜村の江戸時代初期は永井氏領、元禄14年(1701)には本多能登守領、天保8年(1837)には大和郡山藩柳沢領となり幕末になっている。天保9年(1838)の戸数は199軒・人数792人で、塩津浜には本陣・問屋があった。江戸後期には問屋6軒が見られる。
江戸時代初期にも平安時代からのルートと同じで、北国から都へ送られてくる貢物は敦賀から塩津街道で塩津まで運ばれ、湖上交通で大津まで、そして都まで運ばれたため、塩津街道は日本海地方と都を結ぶ大動脈であり、塩津浜はたいへん栄た。北国諸藩から京都・大坂へは年貢米やニシン・海藻などの魚介類が送られ、京都・大坂から北国諸藩へは陶磁器、反物、着物などが琵琶湖上を盛んに丸子船で運搬された。
江戸時代初期の寛永年間(1624〜1644)には一年間に運搬される北国米だけでも30万石に達し、最盛期を迎えた。200石から400石積みの大丸子船は、延宝7年(1679)、塩津に125艘、大浦に21艘、享保年間(1716〜1736)に大丸子船が塩津に84艘、大浦に5艘あった。
寛文12年(1672)西廻り航路が開かれ、敦賀・塩津・大津を経由することなく、北国の諸貨物が、瀬戸内海を通って直接大坂に陸揚げされるようになると、塩津は徐々に幹線交通路としての地位を奪われ衰退していった。
北国貨物の集散・取り引き地であった大津はもちろん、海津、塩津、今津などもその影響をうけ、周辺の人々の生活は苦しくなった。
そしてそれ以降の塩津は、近江や美濃両国の外港として、その国の産物を北国へ積み出し、反対に北国の産物を両国へ移入するという、一地方の貨物の集散地、近江の産物の北国への移送の基地としての役割を果たすこととなった。
町並みは切り妻造り、二階建、桟瓦葺の家屋で、妻入り、平入りの民家が入り混じっているが、妻入りのほうが多いようだ。格子、出格子、真壁造りが一般的のようだ。
そんな中で屋号「沢屋」の元造り酒屋は、この町並みのなかでひときわ目立って大きく重厚な商家であった。主屋はこの地方では珍しい本棟造りの中二階の切り妻造り、妻入り、桟瓦葺で庇つき二階には出格子が二ヶ所、その他の部分は柱・梁を露出させた白漆喰壁など、単純な仕上げで格式が高い建て方であった。
塩津浜から北の敦賀を結ぶ峠道は深坂越えと呼んで深坂峠があり、塩津街道最大の難所であった。平安末期、平清盛は日本海と琵琶湖を結ぶ大運河計画を企て、工事にかかったのをはじめ、豊臣秀吉も運河開削を試み、江戸時代に入ってもこの運河計画は幾度か企画され、工事にもかかっているがいずれも完成に至っていない。  
町並み指数 60
参考文献     
  滋賀県の歴史散歩下  山川出版社  滋賀県高等学校歴史散歩研究会  1993
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典  昭和54年
  近江伊香郡志  伊香郡役場

塩津浜の町並み 

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塩津浜の元造り酒屋の沢屋

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