信楽町の町並
長野
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信楽町長野の町並
 江戸時代、宇治から将軍家へ献上するお茶壷道中の壷が焼かれたのは信楽である。
焼き物の火鉢の生産で名を売っていた信楽焼の産地、戦後は植木鉢を主力製品としていたが、今は庭園用陶器やタイルなどに活路を見出している。
当地の代名詞になっている信楽焼は、日本六古窯の一つ。鎌倉期に既に農耕用の水がめや種壷をはじめ日常生活雑器として商品化されていた。室町期になると盛況を向かえ、永正・弘治年間(1504〜58)には茶湯の普及により茶器の製作がはじまった。
中世の信楽焼は古信楽とよばれ、窖窯によって焼成された焼締陶器である。
江戸時代に入ると、大量焼成のため、窖窯に代わって登り窯が用いられるようになったが、茶陶器は注文により焼成された。生産の主力は日常雑器で、特に江戸後期以降は陶磁器の需要の拡大に応じて成長をとげ、長野村や江田村では壷、甕などの大物、勅旨村や牧村では神仏器、灯火器、片口、徳利などの小物を得意とした。
これらの製品の多くは、京都や大坂へ出荷されたが、その輸送には、木津河舟運が用いられた。それは信楽から現京都府加茂町井平尾浜や現京都府南山城村大河原浜へ出された。
江戸時代の信楽焼として有名なものに御用茶壷がある。いわゆる御茶壷道中に用いられたもので、長野村で焼かれ、宇治上林家へ納められたものである。
信楽町の中心部長野村で陶業者は嘉永4年(1851)38軒、文久元年(1861)50軒、慶応2年(1866)56軒、明治4年(1871)68軒、明治11年(1878)80軒と着実に増加し、明治11年には50,000個の製品が造られた。
幕末から明治にかけては茶業の発展に伴い多くの茶壷が生産され、その後火鉢が主力商品となり、戦後は植木鉢が主力を担っていた。
今は町中、「たぬき」が店頭をかざり、招き猫の代役をこなしている。
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参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年
  滋賀県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1991年
  滋賀県の歴史散歩上  山川出版社  滋賀県高等学校歴史研究会  1993年


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