清水寺への参道の一部。東大路通りから東に延びる清水坂と五条坂が交差する地点から北への急な石段のある坂道を産寧坂(三年坂)という。、産寧坂が大同3年(808)に完成したために三年坂、また、もと清水坂楼門南にあった泰産寺(子安塔)の参道であったことから、産寧坂とも書く。同じように二年坂は大同2年(807)に完成していて高台寺にのびる。 産寧坂には京料理店や瓢箪屋さん、古道具屋や小物の土産物店など規模が小さく、商っている品も可愛い物の店が続き、風情豊かな石畳に古都らしい店が賑やかに、さりげなく並んでいる。その中に重厚な門を構えた邸宅なども見いだす。 この辺りの家々は幕末から明治にかけての中2階、虫籠窓の町屋が多いなかに明治以降の本2階の町屋が混在している。石畳道を進んで右に直角に折れると二年坂に入る。二年坂は産寧坂より続く京都らしい落ち着いた景観で京都ならではのもの。ここも門前町なのだろうが、一つや二つの社寺のものでなく、大から小、有名無名の数多くの社寺をちりばめた地域全体が門前町なのだろう。二年坂の辺りの建物は比較的新しく大正初期に建てられたものが多いようだ 清水坂は陶器店、漬物店、仏具店、人形店などが軒を並べているが、産寧坂に比べると店の構えが少し大きく有名店の出店が多いようだ。清水坂を登りきると清水寺の仁王門が現れる。平安時代の初めに征夷大将軍の坂上田村麻呂が創建した寺で「清水の舞台」として名高い。 高台寺前の南北の道は今迄の産寧坂、二年坂とはガラリと変り、寺院の土塀が続き邸宅の屋敷構えの家々がその中に点在する光景になり、いちばん落ち着いた京都らしい所だと思う。 清水寺を出て、左側の坂道を下ると清水新道(茶わん坂)である。かって清水焼きが行われていた場所で、今は陶器の販売店やギャラリーしかない。清水焼きは京都を代表する焼き物である。このあたりは東から西にかけて坂が多く、登り窯に最適であった。起源は相当にふるいが近世になって栄えた。戦争中の昭和19年に疎開令が出され、清水焼きの五条坂では1251戸が疎開し、登り窯も多く撤去された。戦後の昭和45年の大気汚染防止条例で登り窯の煙害が問題となり、昭和55年に窯は全て火を消した。 京都府の歴史散歩上 山川出版社 山本四郎 1995年 歴史の町並み事典 東京堂出版 吉田桂二 1995年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 町並み・家並み事典 東京堂出版 吉田桂二 平成9年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 |
産寧坂の町並み |
二年坂の入口近く |
産寧坂の町並み |
二年坂の町並み |
二年坂の町並み |
二年坂の町並み |