近江八幡市の町並み 
新町通り・永原町通り
地図


新町二丁目の町並
滋賀県の湖東平野の一角、全国に名をはせた「近江商人」の面影が色濃く残る町で、その中の八幡堀、新町通り、永原町通りなどに伝統的な商家が軒を連ねている。
近江八幡は本能寺の変の3年後の天正13年(1585)秀吉の甥で養子になった秀次の長宗我部元親征伐の功により、近江20万石を与え、安土の西方5kmの八幡山に城を築かせたものである。八幡城とともに作られた城下町が近江八幡である。町は京都に似せた碁盤目状に作られた。八幡城築城に際し、山麓の低地を掘削して内堀とした。これが八幡堀である。
城の防衛に加えて、琵琶湖から城下への水運を目的として開削された運河で、当時の交通幹線だった琵琶湖を往来する船を八幡に寄港させ、八幡の商業の繁栄をもたらした。八幡堀を境に山側に武家屋敷、南側に町人町を置いた。町人町には永原町から西に商人を、東に職人を住まわせた。その際、信長が全国から安土に集めた多くの商人も、同時に移住させ当時としては大規模な商業都市を作った。これが近江商人の中核と云われる八幡商人のはじまりである。
そして安土で実施されていた楽市・楽座による自由商業制を取り入れ、商都・八幡の発展を目指したのである。しかし、秀次は5年後の天正18年(1590)に尾張の清洲に100万石で転封し(後に失脚し高野山に追放され自害)、変わって城主となった京極高次も5年後の文録4年(1595)に大津へ移封となり、八幡城はわずか十年にして廃城となり、八幡城下は衰退したが八幡商人の活躍によって、商業町・在郷町としてよみがえることになる。すなわち、城下町として建設されたが廃城になり、近江商人の商業活動の中心をなす在郷町として発展した町である。
商人たちは活路を求めて、天秤棒を肩にして全国を行商して歩いた。蚊帳、畳表、麻布、灯心などを売り歩き、帰途には、別の地方の産物を仕入れて売るという方法で富を蓄積した。また商圏の開けた地域に出店を持つという、商業形態によって経営基盤を拡大していった。それには株仲間を結成し、自由な商売はできなくなったが、富は大きかった。開町当初は楽市楽座の自由商売で繁栄し、在郷町になってからは株仲間結成で商業活動が活発化した。
現在、町並みとして残るのは町人町で、中でも特筆すべきは、新町二丁目付近と永原町通りの南の方である。
近江商人は各地に出店を持ったが、本店・本宅は八幡に構えたので、この町の繁栄ぶりは非常なものとなった。新町二丁目には宝永3年(1706)建築の旧西川家住宅(国重文)西川利右衛門家(一般公開)、西川庄六家(県文化財)、歴史民俗資料館になっている森五郎兵衛家の別宅、その隣は市立郷土資料館で元八幡警察署西村太郎右衛門の屋敷跡、森五郎兵衛家、朝鮮人街道(京街道、朝鮮からの使者が通った)を隔てた市立図書館は旧伴荘右衛門宅跡など、又、永原町通りには平居醤油をはじめ村岡家、野間家、山本家などの間口の大きい質素であるが、堅牢な商家の本宅や土蔵が並ぶ。
京都に近いこともあり美意識が高く、京都の数寄屋造り風の家が揃っている。町家の特徴は、中二階建て、切り妻造り、平入り、桟瓦葺、格子、出格子、虫籠窓で平屋や二階建も混じる。
板塀の上からは見越しの松がのぞき、町並みを潤いのある景観にしている。これほど多くの伝統的な古い商家が残っているのは、明治時代、東海道本線近江八幡駅建設に、汽車が通れば火事がでると猛烈に反対し、駅を町より遠ざけたためだ。開発から取り残され、江戸・明治時代がチルド保存された町並は我々に当時の近江商人の心意気が感じられる。
近江商人の信仰を集めた日牟礼八幡宮には「安南渡海船額」(国重分)がある。安南屋 西村太郎右衛門が安南(現ベトナム)貿易のため海外に雄飛し、帰国して長崎に入港したが、渡航中に鎖国令が施行されて、上陸が認められなかった。仕方なく乗っていた船の絵を長崎の絵師菱川孫兵衛に描かせて、日牟礼八幡宮に奉納したものである。
          
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参考文献   
  古道紀行  保育社  小山 和  平成3年
  滋賀県の歴史散歩下  山川出版社  滋賀県高等学校歴史散歩研究会  1995
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  近江商人のふるさとを歩く  サンライズ出版  AKINDO会議広報局  2000年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年

新町二丁目の町並み

八幡堀の景観
 
八幡堀の町並み

永原町通りの町並み

永原町通りと上筋の交差点辺りの町並

新町の商家
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