大山崎町の町並み 
大山崎・大阪府島本町山崎1丁目
地図


大山崎の町並
 大山崎町大山崎は京都府と大阪府の境の町で、天王山と淀川に挟まれた狭い地に位置する。古代以来交通の要衝で、長岡京の造営以来、朝廷によって山崎橋の架橋・山崎津の河湊が長岡京の外港として開かれ、平安時代になり山崎駅が置かれた。
橋・津・駅の所在によって山崎の集落は次第に賑わいをみせ、斉衡2年(855)には火事で300余り家を焼いたと云うから、相当数の商家もあったと思われ、山崎は流通の一拠点となっていた。
だが、平安中期から後期にかけて、京都の外港として淀(現京都市伏見区)が開発されため、山崎津は衰退したが、人々は対岸の男山にある石清水八幡宮の神人身分を取得して、灯油を中心に商業活動を展開した。大山崎神人の活動が史料に登場するのは貞応元年(1222)だが、当時すでに美濃国まで商圏を拡大しており、以降室町時代の最盛期を向かえている。商圏は九州から東海地方にまで営業圏を広げ(大和は除く)京都に進出して居住する者も多かった。
山崎城は南北朝時代に天王山に築城されて以来、山崎や天王山は軍事上の要衝としてしばしば合戦が行われている。応仁の乱以降は戦火に巻き込まれることが多かった。天正10年(1582)の明智光秀・羽柴秀吉による山崎合戦は有名であるが、実際には戦闘が行われていない。山崎合戦の後、秀吉は約一年間山崎城に在城するが、翌年には大坂に移ってしまった。
さて、大山崎では神人は商業の座をもち、町政や町の自衛にもあたり、石清水八幡宮とは別に山崎の地の離宮八幡宮の社殿が建て替えられるに至り、次第に大きな組織となった。そして離宮八幡宮の社殿は江戸前期2度にわたる幕府の助成を受けて改築され、荘厳さが増してきた。そのため男山の石清水八幡宮との本末争いが起こり、元禄10年(1697)幕府の裁定によって公式に離宮八幡宮として分離独立した。こうして大山崎は離宮八幡宮の社領として独自の支配体制がとられた。
中世以来の荏胡麻油の油稼業は重要な生業であったが、石清水八幡宮と分れたこと、織田信長の楽市楽座の制度促進により、また、水車絞りによる摂津の菜種油・綿実油に取って代わらたことなどにより衰退の一途を辿った。
神人は近世では社家とよばれ、朱印高の内から石高をもらっていて、社領の支配や神事奉行を行うと同時に町政にも関与していたが、山崎の衰退は家数の減少を見ても明らかである。
大山崎村は社家を中心に構成され、その家数は永禄11年(1568)175・貞享期130余・元禄2年(1689)102・宝永7年(1710)101・天保5年(1834)58・明治4年36・明治13年29と減少の一途を辿っている。
近世山崎は西国街道の宿場でもあった。天保14年(1843)の山崎宿大慨帳によると、町並南北15町、家数261・人数1,042、本陣1、脇本陣1、旅籠屋8(大0・中3・小5)とあるが、京都伏見から出発する西国街道の最初の宿場であったが、次の宿場の郡山宿(現茨木市)との間宿であった。
町並みは元治元年(1864)年に長州軍の真木保臣らが会津藩兵や新撰組らに攻められてた時の兵火により、離宮八幡宮をはじめ寺社や民家百数十戸が焼失し、山崎の歴史遺産の大半が失われてしまった。
大阪市街や京都市街への通勤圏として機能している大山崎。古い町並みも一部しか残っておらないが、煙出しを残した家屋も散見でき、古い街道筋だった面影が残った町並みだった。
町並み指数 40
参考文献      
  京都府の歴史散歩下  山川出版社  山本四郎  1995年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年
  京都府の地名  平凡社  下中邦彦  1981年 

大山崎の町並

大山崎の町並

大山崎の町並

大山崎の町並

大山崎の町並

大阪府島本町山崎1丁目の町並

大阪府島本町山崎1丁目の町並

大山崎の町並

大山崎の町並

大山崎の町並
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