大津市膳所城下町の町並み
膳所1丁目・中庄2丁目・中庄1丁目・瓦ヶ浜町
地図


膳所1丁目の町並み

 琵琶湖の南岸、近江大橋西側袂の南側に膳所公園が湖中に突き出している。ここが江戸期の膳所城跡である。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦後、瀬田橋の警護と京都を睨むため、大津城を廃止し、膳所村に膳所城が築かれた。湖中に突き出た膳所ヶ崎に本丸(天主)・出丸・二ノ丸を築き、内堀を隔てて、北ノ丸・三ノ丸や主要施設の他、家老・中老などの有力家臣の屋敷が置かれた。そして三ヶ所の大手門より外堀を隔てて町屋があり、東海道が南北に通っていた。
東海道筋の両側に町家が並び、その西側山手にかけて中級・下級武士の屋敷が割り当てられていたが、寺町は造られなかった。
城主は所領は少ないが、京都を押さえるため歴代譜代大名の名家が封じられ、戸田・本多・菅沼・石川と代わり、慶安4年(1651)本多俊次が封ぜられて以後幕末まで本多支配が続いた。
大津城が背後に山を控え防御に不利で有ったことと、大津を幕府直轄の経済都市として支配するため、政治・軍事の拠点として膳所城を築いたと考えられている。大津を経済都市とし、その横の膳所を政治・軍事都市としたため、膳所城下町には商業都市に見られるような商工業に関連する町名が全くない。武家屋敷地域の道路は筋違いに走り、見通し困難になるように町割りされていた。
城下町の様子は、元禄年間(1688〜1704)に出版された「淡海録」という地誌によると、貞享2年(1685)の武家屋敷499・町屋409・寺22・人数3,049。元禄15年(1702)膳所総絵図によると武家屋敷467・町屋460。正徳4年(1714)の「京都御役所向大慨覚書改め膳所町家数人数寺社数牛馬船数之覚」によると家数478・寺24・神社9・人数3,284。
東側の琵琶湖、西側の山に挟まれた細長い城下町の中を東海道が幾重にも屈曲しながら進むという特異な城下町を造り出していた。
今、古い町並みと云えるほど連続した町並みは残って居らないが、武家屋敷だった地区には土塀の町並みが一部残っていた。武家屋敷特有の筋違い道や多くの屈曲した細い道、家屋の佇みから武家屋敷町の面影が色濃く残っている。
一方武家屋敷地の傍を通る旧東海道筋の町並みは一変して、町家建築の家が並び、切妻造り平入り中2階建ての町家が連なっている。煙出しを残した民家が多く有ったのも印象に残る町並みだった。
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参考文献
  滋賀県の歴史散歩上  山川出版社  滋賀県高等学校歴史散歩研究会  1993
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年
  滋賀県の地名  平凡社   (有)平凡社地方資料センター  1991年


膳所1丁目の町並み

膳所1丁目の町並み

膳所1丁目の町並み

膳所1丁目の町並み

中庄2丁目の町並み

中庄1丁目の町並み

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瓦ヶ浜町の町並み
 
瓦ヶ浜町の町並み
 
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