比叡山中に位置し、西側は山城国(京都)、東側は近江国の国境の集落で、滋賀越えあるいは山中越えと呼ばれる山道が、滋賀県から京都北白川に通じている。 壬申の乱の残兵が逃れてこの地に隠れ、田地を開いて一村をなしたという。山中越えは軍事・交通上重要な役割を果たし、中世には山中関が置かれて、関銭を徴収していたようだ。 貝原益軒は「京城勝覧」で「山中、民家多し、町有り、寒気ふかくして梅花も二月に咲く、桜はなおおそし」と記し、この山中越えの道を「むかし道」と称しているが、これは西廻り航路の開拓によってさほど注目されなくなったためと思われる。 しかし享保6年(1721)には日本海から運ばれてきた荷物を、大津浦に着けずに、山中越えで京都に運んだり、文化8年(1811)・文政4年(1821)にも大津を迂回して山中越えのルートを使用する商人が現れている。これに対して大津町の商人はその都度幕府に訴えている。 昭和9年には現在の主要地方道(山中越)(下鴨−大津線)が竣工し、山中集落内は通過しなくなり、町並はそのまま残った。 集落は全くの山村集落ですが、京都・大津に近く活気ある集落の様子です。集落内の家屋も江戸から明治・大正と建てられた年代は大きく異なりますが、現代的な家屋も少なく、落着いた山村集落の光景を展開しています。 滋賀県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 |
山中の町並 |
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