大津の歴史は古く奈良・平安時代から東海道・北国街道・琵琶湖水運の重要な港だった。 特に北陸や出羽など日本海側の諸国から奈良京や平安京に送られる物資は敦賀や若狭の小浜で陸揚げされ、山越えして湖北の海津や塩津から琵琶湖水運で大津港まで運ばれ、奈良や京都に陸送された。 また、豊臣秀吉により大津百艘船が組織され、独占的な水運により更に大津に繁栄がもたらされた。この琵琶湖水運は、西廻り航路が開発され、北前船が定着する江戸時代中期までは盛況を極め、大津の港は大いに潤った。 関ヶ原の戦いの前哨戦だった大津籠城戦で大津城や大津の町は全て焼けてしまったが、城は膳所に移され大津は城下町から商業都市として生きることになった。 東海道の整備で大津の地子(土地の税金)が免除されるなどして、住民の帰還が図られ、宿場町として重要な役目を担うことになった。 経済都市大津町の繁栄ぶりは元禄10年(1697)の「淡海録」によれば、元禄年間(1688〜1704)には町数100・家屋4,726軒・人数17,810人である。この頃が一番繁栄していたようで、以後、正徳4年(1714)家数3,015軒・17,568人。天明3年(1783)14,950人。天保期(1830〜44)家数3,650軒・人数14,892人と家数・人数共に減少しているが、天明・天保の飢饉の後でも15,000人近い人数を擁する大都会であった。 湖岸に沿う浜通りには幕府・諸大名・旗本の蔵屋敷が立ち並び、米問屋を中心に酒・油・薪炭・魚貝の問屋街ができていた。中町通りには日用品の、京町通り(東海道)には近郊農村相手の商店街、札の辻から南の逢坂の関に向かう八町筋には本陣2軒や脇本陣1軒、200軒近い旅籠が軒を並べていた。 大津宿内町並は東西16町余・南北一里余で、宿機能の中心地の札の辻から北国街道(西近江路)が分岐していた。 繁栄を誇った大津町も西廻り航路が定着してからは、湖上水運が後退し経済的な地位は低下していった。 東海道大津宿では、大津絵や算盤が名産として売られ、大津町衆の富力を示すものに、大津祭り(四宮祭り)がある。京都祇園祭りと同じように山車14基が豪華絢爛な飾り付けで巡行するもので、明暦2年(1656)にはほぼ現在の形になったと言われている。 今、京町通りの旧東海道筋を歩くと、伝統的な古い建物は殆ど残っておらないが、宿場町であった名残は色濃く残っていて、数は少ないが江戸末期から明治にかけて建てられたと思われる建物が少し散見される。 かって宿場の中心、札の辻から南の逢坂の関の間の八町筋には本陣・脇本陣・旅籠が軒を並べていたのだが、今は全くその面影がなくなっているのが惜しまれる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 滋賀県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 滋賀県の歴史散歩上 山川出版社 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 1993年 近江東海道 サンライズ印刷出版部 淡海文化を育てる会 1996年 |
三井寺町の旧北国街道の町並 |
中央一丁目の旧東海道筋の町並 |
中央二丁目の旧東海道筋の町並 |
京町二丁目の旧東海道筋の町並 |
左側京町二丁目・右側中央二丁目の旧東海道筋の町並 |
松本二丁目の旧東海道筋の町並 |