湖北長浜は豊臣秀吉一色の町である。長浜城のこの地は今浜といい京極家の有力な家臣、上坂泰貞が永正年間(1504〜20)に築城、今浜城と呼んだらしいが、浅井亮政(すけまさ)が攻め今浜城もその支配下に入った。 織田信長は天正元年(1573)小谷城の浅井長政を攻め亡ぼし、浅井の遺領を羽柴秀吉に与えた。秀吉は不便な小谷の山城を捨てて、今浜に城を築き長浜と名付けた。これが長浜の起源である。 西は琵琶湖に面し、三方には堀をめぐらせた長浜城の築城とともに城下町の形成にも力を入れた。城の東側に碁盤目状に道路を設け、小谷城下などから商人を移住させ市街地をつくり、楽市楽座の城下町を経営した。民家の移転とともに小谷城下から寺院の移転も行われた。 本能寺で信長が急死したのは天正10年(1582)、以降の秀吉は天下奪りに走ったから、長浜在城は足かけ7年にすぎなかった。 城主は柴田勝豊、山内一豊と代わり、関ヶ原の戦い後は幕府領となり、城主も内藤信成と変わった。内藤氏が長浜に封ぜられてのは、大坂城の豊臣氏と北陸諸侯が通じることを警戒するためであったが、元和元年(1615)の大坂の陣で大坂城が落城し、豊臣氏が滅亡した後は、存在の意義がなくなり、長浜城下は彦根藩領となり廃城となった。徳川氏の政権になり、彦根城築城のとき、豊臣家ゆかりの城は徹底的に破壊し、石垣の石までくずして彦根へ運んだ。 長浜城はこのようにして歴史が短く、秀吉が治めたのもわずかの期間だったが、秀吉は長浜の生みの親であり、長浜の人々の太閤びいきは相当なものだ。 城下町ではなくなったが、この地方は古来養蚕が盛んで、生糸を原料とする絹織物を生産し、宝暦年間(1751〜64)から浜縮緬を製織した。その他、蚊帳・ビロードなど農家の婦人の家内工業として発達し、近世の長浜の町は、生糸や織物の集散地として、また、商業の町として賑わいおおいに栄えた。 また、中山道、鳥居本から分かれて北進する、北国街道の宿場でもあって、その上長浜港は琵琶湖の船運を利用して、湖周各地への湖上交通の要津で、松原・米原と共に彦根藩三港の一つであった。 長浜の古い町並みは北国街道沿いにあり、安藤家もその一軒である。長浜町を形成する当初よりの功労者で、総年寄三人の一人に任じられる。家屋は軒の出の深い格子造りの古い民家である。 その安藤家より古い町並みが北へ500m南に200m位続く。北国街道と大手通りとの交差するところが昔の札の辻である。この札の辻の角にどっしり構える黒壁ガラス館は明治33年に建てられ、黒壁銀行の愛称で親しまれてきた、第百三十銀行長浜支店で昔のままの黒壁鉄扉に改装して、黒壁ガラス館として平成元年7月にオープンしている。 黒壁ガラス館より北には虫籠窓のある商家、蔵造りの商家、格子窓の商家など、古い町並みが連続して現れ、その中に「武者隠れの道」といって、南北長さ約120mにわたって、各戸の屋敷と隣家の屋敷の境界が不規則に出たり入ったりして、戦いの時に身を隠したといわれ、独特の景観を呈している。 北国街道沿いの元浜町には造り酒屋や醤油醸造家の家があり、他を圧倒する豪壮さを持った商家である。ステンション通りと北国街道が交差するところには、大きなガス燈のある商家や駒繋ぎ石のある商家があり、有名な船板壁の商家もある。船板塀の商家は白嘉(はっか)といい油商であった。南側全面が船板壁でこれだけの長い船板壁は珍しい。 長浜旧駅舎は明治15年に開通した旧北陸線の駅舎で、JRで一番古い建物といわれていて、今は鉄道資料館になっている。旧長浜駅前の通りが「ステンション通り」と呼ばれていて、かっては旅館や貨物の集荷商社が並んでいた。 (ステンション通りと記載していますが、間違いでないです。明治時代の人がステーションをステンションと言っていたようです) 滋賀県の歴史散歩下 山川出版社 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 1995 湖北の観光地ミニ事典 イメーディアリンク 中島孝治 平成4年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典 昭和54年 |
旧北国街道沿いの安藤家 |
朝日町ステーション通りの町並み |
舟板塀の商家 |
旧北国街道沿いの町並み |
大通寺の表参道 |
旧北国街道沿いの商家 |