長浜市西浅井町菅浦は琵琶湖北部、葛籠男半島の先端にできた小湾の湾奥に位置する集落である。背後は急峻な山腹斜面が迫る。そのため昭和46年に奥琵琶湖パークウエイが開通するまでは、自動車が通じる道も無かった集落で、他村とは隔離された別世界であったが、平安・鎌倉期の文献に記録が残る程歴史ある集落である。 また、この菅浦集落は日本の中世の惣村活動の地としても有名で、その様相は鎮守須賀神社に「菅浦文書」として残され、中世村落の研究資料として大切なものである。 古代から湖上交通の要津塩津とともに知られた湊で、塩津湊航行時の退避湊でもあった。 もとは大浦庄であったが、菅浦庄が成立、その両者間の境相論が永仁3年(1295)より150年間にわたって繰り返され、数度の刃傷事件を伴い、文安2年(1445)と寛正2年(1461)には、庄民をも巻き込んだ大きな合戦にもなり、菅浦惣庄では老若男女書置きを残して死ぬ覚悟の合戦であった。 江戸時代、寛永11年(1634)では石川領。元禄14年(1701)では膳所藩本多氏領で、そのまま明治を向かえる。 慶長7年(1602)では屋敷地登録人101人・無屋敷登録人29人であったが、寛政4年(1792)には家数102・人数447となり、慶応4年(1868)には家数99・人数428に減少している。 菅浦は漁港でもあり、天保3年(1832)には丸船16艘、小?船11艘、田地養船4艘があった。 湖岸に近い道に沿っては石垣が連続して積まれている。海ではないが、大きな琵琶湖だから、風雨の強い時には、波も荒いのだろう。只この石垣は今の湖岸から随分山側になっているのは、湖岸の砂浜が大きく埋め立てられた為と思われる。 江戸時代から半農半漁の集落であったので、特別大きな豪商と云われる商家の建物も無いようだが、湖岸に向かって石垣が積まれた町並みは、この地独特の町並み風景であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 滋賀県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 |
西浅井町菅浦の町並 |
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