江戸時代には中山道の最初の宿として、京立ち守山泊まりとして栄えた。 織田信長は永禄11年(1568)、秀吉は文禄3年(1594)守山に制札を与え、江戸期になると寛永19年(1642)徳川幕府より制札が出て、新たに中山道の宿駅となった。守山村を本宿として町並続きの吉身村・今宿村を加宿とした。 守山村ははじめ幕府領、安政6年(1859)からは丹後宮津藩領。村高は「寛永高帳」では820石余、 吉身村ははじめ幕府領観音寺預かり地、天保8年(1837)からは丹後宮津藩領。村高は897石余り(寛永高帳・元禄郷帳・天保郷帳)。 今宿村は、徳川家康の在京賄料地で、芦浦観音寺預かり。寛永年間(1624〜1644)は膳所藩領、のち安政6年(1859)から丹後宮津藩領となる。村高は463石余り(寛永高帳・元禄郷帳・天保郷帳)で以後明治維新まで変わらなかった。 守山村の本宿は表町・裏町(両町合わせて現守山町)・下之郷からなり、高札場は表町と裏町の境に設置された。当時の守山宿には家数68・寺院8があった。 幕末にかけて近道として、守山宿を通る西国大名が多くなり、姫宮・朝鮮・琉球使節やお茶壷行列などの通行地点でもあったことから宿としての町並が整った。天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると、今宿・吉身の加宿をあわせた町並の長さは1053間(約1.3km)人口1700・家数415。嘉永6年(1853)には、本陣2・脇本陣1・問屋3があり、皇女和宮降下のころの文久元年(1861)には旅篭31戸があった。 東門院の東少しのところから道幅が広くなっていて井戸跡があった。宿場の防火・生活用水となっていた井戸跡である。 この辺りを「稲妻型屋敷割りの道」といい、道路に沿った民家の敷地が一戸毎に段違いになっている。段違いの長さは一定でないが、おおよそ2〜3尺で間口の幅は規定されていない様だ。守山宿が守山の市と関連して商業的機能と宿場を兼ねていたことで、怪しい者が隠れても反対側からは容易に発見できるという、宿の治安維持のために造られたようだ。よく似たノコギリの刃状になった道は、近くでは長浜市の北国街道沿いに「武者隠れの道」がある。造られた目的は同じようなものだろう。 伝統的な商家も点在するが、残念ながら連なっているとは云えない。東門院前の三叉路に立つ南喜醤油店からはじまり、茶屋の中村家、蝋燭屋の中山家、本陣跡の甲屋、宇野家、宇野酒造店、山田家など また 今宿には山本家が壮大な屋敷に重厚な商家の建物を誇っていた。 町並を構成する商家の建物も、数が少なく平均的なものが、見出せないが、妻入りは少なく平入りが多かった。比較的大きな宇野酒造店の主屋を紹介すると、入り母屋造り、平入りの中二階立て黒漆喰塗りの虫籠窓は白、桟瓦葺き、煙だしが備わっていて、格子・出格子であった。 また 今宿町には一里塚(県史跡)がある。県下の中山道ではもうここだけしか残っておらない貴重な史跡である。 滋賀県の歴史散歩上 山川出版社 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 1993 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1995年 滋賀県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 近江中山道 サンライズ出版 淡海文化を育てる会 1998年 |
守山町2丁目の町並 |
守山町街道筋の造り酒屋 |
守山町街道筋の町並 |
今宿町街道筋の町並 |
吉身町街道筋の町並 |
吉身町街道筋の町並 |