美山町は京都府のほぼ中央東寄りの山間部の町で滋賀県と福井県に接する県境に位置しています。東から西に向けて蛇行する由良川及びその支流に沿って57の集落が散在し、北山型と称される入り母屋造りの茅葺き民家が多く残り、平成6年現在約300棟が現存している。 江戸時代、美山の大部分は園部藩、一部は篠山藩と旗本の所領であった。北地区は篠山藩領であった。北地区には、およそ50戸の家屋が東西600m、南北300mの範囲に点在し、その内約6割が茅葺屋根であってその残存率は全国一との折り紙つきである。 明治21年の戸数53軒、大正10年の戸数53軒・人数267人だある。 北地区の屋敷地は石垣を築いて北に段丘状に高まりながら散在している。集落内を流れる水路、家屋を守る石垣、茅葺屋根にアクセントを添える破風、それぞれに庭木、果樹、畑を持っている景観は見事で、農村風景でこれ以上の景観はないと思う。 「民俗資料館」もあり、この家は屋号を「伊助家」といい18世紀中頃の建築で主屋、小屋、倉の三棟を復元し公開しているもので、内外の造りとも農山村民家の典型が残されている。 京都府の補助を受けて美山町が復元したもので、その他に、先程の民宿「またべ」、お食事処「きたむら」と茅倉庫の4っが造られ、管理が北地区に任されたので「かやぶきの里保存会」を作り管理されている。 資料館の妻側の土間より入ると「かまど」がデンとあり、その奥に台所、中程に囲炉裏があり、地元の主婦のおばさんがお茶を勧めてくれた。 主屋は入母屋造り、妻入り、平面は喰い違いの四間取りで、土間、流し、かまど、唐臼場、台所、囲炉裏、納戸(部屋)、座敷、中の間、下の間、うまや、風呂場、縁、屋根裏から成っている。印象深かったのは屋根裏部屋。茅葺屋根を天井として眺められるわけで、岐阜県白川郷の合掌造りとは違った幾何学的模様の美しさは見事なものである。通常この屋根裏には次に葺き替える茅を保存しておくそうだ。白川郷のように大きくはないが、茅葺き屋根の裏側から見る光景は繊細という感じであった。 また、床の壁面を含め土壁はなく、すべて板壁で仏壇は組み込みであり神棚と同居していた。なお北山型の茅葺き農家住宅の特徴として入り母屋の棟飾りの馬のり、雪割りと共に破風に彫刻した懸魚を垂らし、その下に通風、排煙口を兼ねて家の紋を透かし彫りにしている。 北地区の民家は「北山型」と呼ばれる山村住居の一類型で「北山型民家」は美山町、京北町を中心として広い範囲に展開している。現在、北地区には茅葺屋根の主屋19戸、茅葺屋根のトタン覆い11戸、茅葺の小屋が3棟残る。トタン覆いを取り去れば合わせて茅葺屋根の民家がかたまって30戸できることになる。茅葺き屋根は約20年に一度葺き替えが必要で、工程は1週間から10日ほど、費用はおよそ600万円で重要伝統的建造物群保存地区に指定されて7割りの補助が受けられるが、やはり維持するのが大変であろう。 誠に残念なことに、平成12年2月に、上記の民俗資料館が一番注意されてたであろう火災にあって焼失してしまいました。またもや重要な茅葺の家屋が無くなったことは残念である。 偶然、焼失する直前にも、美山町北地区を訪ね雪景色の民俗資料館などを撮影していたので、ここに写真を掲載致します。 追記 平成14年2月に雪景色の撮影の機会があったので訪ねると、以前は茅葺屋根の上をトタンで覆っていたのが多くあったが、殆どのトタン覆いが取り払われていて、茅葺屋根の上の雪を撮影することができた。また、焼けた民俗資料館の復元工事もされていて、町並保存へ大変な努力のをされていることに感謝して撮影した一日であった。 歴史の町並み事典 東京堂出版 吉田桂二 1995年 京都府の歴史散歩下 山川出版社 山本四郎 1995年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 美山町北茅葺の里 京都府美山町教育委員会 |
焼けてしまった民俗資料館(焼ける少し前) |
北地区の集落風景 |
在りし日の民俗資料館 |
北地区の集落風景 |
北地区の集落風景 |
北地区の集落風景 |