旧水口町貴生川から三大寺にかけては、信楽へ通じる道と杣川沿いの甲賀・柘植へ通じる道の分岐点に当たり、道標「右 山上庚申道、左 深川伊賀道、右 志がらき‥‥」が立っていた。 貴生川村は明治22年に内貴・北内貴・虫生野・宇川の4ヶ村が合併して成立したもので、信楽へ通じる道筋に民家が連なり、かって商業地だったことが伺える。 三大寺村は信楽への道と甲賀・柘植への道が交差している小字三本柳周辺には伝統的な様式の商家の建物が連なり、繁栄していた当時を彷彿とさせている。 今回訪ねた地区は、元北内貴と三大寺辺りで領主の変遷は北内貴村は、慶長5年(1600)徳川氏の代官松下孫十郎・林伝右衛門が支配、寛永(1624〜43)以来小堀遠江守・山口但馬守、天和2年(1682)水口藩領となり幕末に至る。元文3年(1738)には家数56・人数288であった。 三大寺村は慶長5年(1600)旗本平岡四郎右衛門支配。寛永10年(1633)水口城代小堀遠江守、慶安〜明暦(1648〜58)は山口但馬守、万治〜寛文4年(1658〜64)は小堀仁右衛門・同源兵衛。元禄11年(1698)に村高を2分し、一つは松平五郎右衛門と同大膳正に、一つは松平伯耆守に与えられた。その後継続がハッキリしないが、明治元年には丹後宮津藩領と旗本桜井氏領であった。明治13年の家数186・人数868で、農業136と大多数を占めていて副業に製茶・採薪・炭焼をしていたようだ。 今も呉服屋・造り酒屋・線香ローソク屋・醤油屋・米屋などの古い町並を形成する商店が軒を連ねている。国道がパイパスになって町並の裏側(南側)を通ったので、伝統的な様式の格子や虫籠窓の平入り商家の建物が比較的多く残り、古い町並を構成していた 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 滋賀県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1986年 |
貴生川の町並 |
貴生川の町並 |
三大寺の町並 |
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三大寺の町並 |
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