滋賀県の南東部に位置する水口に休泊機能ができだしたのは、伊勢参宮のための通行が繁くなったためで、当時はこの街道を「伊勢大路」と称した。室町時代のことと考えられる。 天正13年(1585)、天下統一の途上にあった羽柴秀吉は、家臣中村一氏に大岡山に水口岡山城を築かせた。その地は鈴鹿峠から蒲生郡一帯を一望することができる要衝であった。 中村一氏は築城とともに城下の整備に努めたと考えられ、東海道を中心として街区を整え、近隣から商人などを集住させた。後に宿場町の中心となったのは城下として、整備された部分であり、水口独特の三筋の道路もこの時期に成立したものと考えられている。 城主は一氏のあと増田長盛、長束正家とつづいた。いずれも豊臣政権の五奉行の一人であり、この城が重視されていたことがうかがえる。 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際しては、時の城主長束正家が西軍に参加したため落城してしまった。 関ヶ原の戦い後、家康は、すぐさま水口を直轄地とし、翌6年には東海道の整備にともない、水口をその宿に指定したのである。 東海道を中心に東西にのびる道路を挟んで両側町が形成され、延宝7年(1679)の記録によれば家数718を数え、中山道が分岐する草津宿よりもその規模は大きかった。しかしそのピークは寛永年間(1624〜44)とされ、三代将軍家光の上洛、参勤交代制度の制定などあり、後に水口藩の成立にともなう武家地がこれに加わり絶対人口は増加したが、町勢そのものは徐々に落ちていった。 水口は宿場町と城下町の顔を併せもつ町であるが、「京立ち石部泊まり」の言葉が示すように、石部・土山両宿の間にはさまれ、中間的宿駅の地位に甘んじ、宿泊地としてはいまひとつふるわなかった。 天保14年(1843)の宿村大概帳によれば、宿内家数692軒・人数2,692人・本陣1・脇本陣1・旅篭41軒であった。 水口宿で特筆すべきは水口城である。水口城は軍事的や支配の中核としての城でなく、徳川将軍専用の宿館・御茶屋であった。家康は江戸と京・大坂との度重なる往返に際し、ここ水口を休泊の地に選んでいるが、開宿後も宿内の民家や寺院を利用していた。 しかしその後の通行は大規模となり、道中の要所に専用の宿館である御茶屋が設けられるようになった。寛永11年(1634)の三代将軍家光の上洛に際しては新たに御茶屋を築くことになった。これが水口城である。 城普請は文人旗本 小堀遠州があたり、湧水の堀をめぐらせた名城で、「碧水城」とも呼ばれた。その構成は京都二条城を小さくしたようなものであった。このように贅を尽くした水口城であったが、家光が上洛帰途に一泊しただけで、本丸殿舎も撤去されて、矢倉や門などが明治維新まで残っていたが、維新後はついに廃城となった。 宿場に関する建物では、大池町にあった問屋場や宿東部の作坂町(現在元町)にあった本陣(鵜飼氏)は明治時代に撤去されたが、おなじ作坂町(現在元町)の脇本陣の建物はわずかながらも往時の面影を偲ばせ、鍵町(現在本町)に東海道で現役最古ではないかという、元録13年(1700)創業の旅篭、枡又旅館がある。江戸時代の旅篭屋の姿を今日に伝えている貴重な建物であり、水口宿マス屋旅館枡屋又兵衛と木製の大きな看板を揚げていた。 古い町並は多くは残っておらないが、宿東部の元町の脇本陣を中心にした辺りは、宿場町の名残のある町並みである 古道紀行 保育社 小山 和 平成3年 滋賀県の歴史散歩上 山川出版社 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 1995 近江東海道 サンライズ出版 淡海文化を育てる会 1997年 甲賀水口の歩みと暮し 水口町立歴史民俗資料館 平成10年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 |
元町の町並み |
元町の町並み |
梅ヶ丘の町並み |
元町の町並み |
元町の町並み |
本町(元鍵町)の旅篭(現役) |