珍しいカタカナの町名のマキノ町海津は、琵琶湖の西側の最北部、平安時代から湖上交通の北辺の要路にあたり、平安後期には海津湊として発展していた。 室町時代には北陸の諸荷物や年貢米が、敦賀から海津・塩津を経て、船で大津方面へ輸送されていたので、大津・坂本・今津とともに商取り引きの重要な港であった。北国・東国から京都・大坂への交易は敦賀まで船で、敦賀から陸路七里半越えなどで海津・大浦・塩津まで運び再び船で大津までと、小浜から陸路九里半越えで今津まで、後大津まで船の方法があった。 江戸時代、海津三町(海津東町、海津中村町、海津中小路町)は初期より幕府領であったが、寛文8年(1668)から中村の多くが加賀藩領になった以外は、享保9年(1724)までは幕府領であって、その後は加賀藩領を除いて以後大和郡山藩領となっていた。 西廻り航路が開通するまでは、北陸地方と海津を結ぶ七里半越えと、海津から京都・大津への湖上の交通とを結ぶ重要な港として栄えた。延宝〜享保(1673〜1736)頃には、100石積以上の大型丸子船を60〜75艘も保有し、200人前後の加子(舟乗り)がおり、6、7軒の回船問屋が軒を並べていた。 江戸時代の寛永の初め(1624)ころには、海津宿を経由して大津方面へ運ばれる北国諸大名の御城米は、年間三十万石(75万俵)もあったが、西廻り航路が寛文12年(1672)に開通し、裏日本から直接大坂へ送られるようになると、海津への御城米は年々減少し、延宝期(1673〜81)には、御城米は平均年六万石(15万俵)と急激に減り、貞享期(1684〜88)のころになると、年間わずかに一万石(2.5万俵)になり、最盛期の約30分の1になってしまった。 最盛期の寛文年間(1661〜73)、敦賀から海津への上り荷物で、最も多いものは米で、全体の70〜80%を占めていた。他には、大豆などの穀物類・魚等の水産物、加賀の木地類、輪島の漆器、菅笠、高岡の銅器・鉄瓶、富山の売薬などであった。 下り荷としては美濃・尾張・近江の陶磁器、三河の生綿、京都・大坂・名古屋の呉服・大物類、美濃・近江の煙草・茶・ミカンなどであった。西廻り航路が発達し、敦賀・小浜への廻米は減少または停止されたが、海津への諸荷物の減少が落ち着いてきた宝永(1707〜11)以降の海津は、近江や美濃両国の外港として、貨物の集散地、近江の産物の北国への移送の基地としての役割を果たすこととなった。 マキノの町の湖岸海津浜の石垣は、元禄14年(1701)に西浜の属する高島郡甲府領の代官となった西与一左衛門が、元禄16年(1703)に幕府領の海津東浜の代官 金丸又左衛門重政と協議し、幕府の許可を得て、湖岸波除石垣を西浜に495.5m、東浜に668m築いたもの。 これによって海津西浜は水害から守られた。この石垣は嵐のたびに何度も改修され今日に至っている。 海津の古い伝統的な町並みは石垣より少し内側に、石垣と平行に通る街道の両側に展開する。その中に地酒の醸造元や、400年以上の伝統をもつ醤油醸造の家などがある。 海津西浜の街道の中程に海津天神社への参道がある。その参道より南側の街道の両側では切り妻造りで、街道に妻側を向けた妻入りの民家が多いのに、その北側では棟を街道と並行にした平入りの商家が多い。敷地の関係でそうなったと思われるが面白い現象である。妻入り、平入りに関係なく中二階の民家が多い。中二階は真壁造りでなかには出格子をはめた民家もあり、屋根は桟瓦葺である。 マキノ町で凄いのは、あまり知られていないが、町の中心部から約9kmの山中にある在原という集落である。茅葺屋根の民家が30棟ほどあり、西日本隋一の規模と云われている。昔からの農村風景そのままで、日本人の心のふるさととして感慨深い。岐阜県の白川郷や京都府の美山村と比べても遜色ない村落であるが、何ら保護対策がなされていないようだ。 滋賀県の歴史散歩下 山川出版社 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 1993 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 海津物語 マキノ町 マキノ町役場産業振興課 平成10年 |
町並み |
造り酒屋 |
波除の石垣 |
波除の石垣 |
在原の集落 |
在原の集落 |