舞鶴市吉原地区は東西に分かれているが、西側にあるのが東吉原で、東側にあるのは西吉原と云う具合に東西が入れ替わっている不思議な町である。 田辺城の北方に位置する漁業を主体とした町であった。 城下町田辺の漁民は細川藤孝が田辺城を築城して以来、竹屋町・平野町・魚町・丹波町の川尻に住して漁業を行っていたが、関ヶ原の戦い時の田辺篭城のとき、水軍に劣らぬ働きをしたことにより、領内の波打ち際三間の漁獲が自由に認められるという特権を得た。 もともと東吉原とは魚町・丹波両町の町尻を、西吉原とは平野町・竹屋町の町尻を指し、葦(ヨシ)が生い茂る湿地帯であったからの呼び方と思われる。 それが享保12年(1727)の火災により、城下が大部分焼失した際、藩の命令で下安久村の現在地に移住させられ吉原町が造られた。その時に移住した東側には平野町・竹屋町尻の西吉原に住んでいた漁民でそのまま西吉原になり、西側には魚町・丹波町の東吉原に住んでいた漁民が移住してそのまま東吉原と云い、東西が逆転してしまった。 この吉原地区は今でも江戸中期に移住されたままの町割りを残している。自然発生的な猟師町でないから、町割りは南北に三筋の道を直線に通した規則正しい町並で、中央に水路を開削して交通路兼船溜になっていたのが今でもそのまま利用されている。 町並を歩いていて、伊根のような舟屋を見つけた。護岸を造成したため、もう使用はできないが舟屋そのものであった。かってはこのような舟屋が100棟もあったそうだ。 町並を構成する家屋は猟師町特有のもので、間口が5mそこそこで奥行きは10m程の小さな敷地に隣と接してぎっしりと建てられている。よく丹波地方では妻入り建物が連続した町並を見かけるが、ここではその余裕すらない。妻入りが並ぶと家と家との間の雨の始末に困るからだ。全ての家が間口が狭い平入りで奥行きが長い。こうすることで雨仕舞が簡単だからだ。 古い家もあるだろうが、明治から昭和期に建てられた家が多いように思った。 漁師町といっても今では10パーセント位しか漁業に携わっていないようであるが、水産加工されている家も多く見かけられた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 京都府の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
西吉原の水路風景 |
西吉原の町並 |
西吉原の町並 |
西吉原の町並 |
西吉原の水路風景 |
西吉原の町並 |
西吉原の町並 |
西吉原の町並 |
東吉原の水路風景 |
東吉原の水路風景 |