舞鶴市西舞鶴地区の町並
竹屋・丹波・平野屋・新・本・寺内町
地図


高野川沿い竹屋町の倉庫群

  舞鶴市は古くからの町西舞鶴と軍港都市として発展した東舞鶴とに分かれる。
織田信長軍による丹後平定は天正6年(1578)である。信長は細川氏に丹後一国を与えた。天正8年(1580)入国した細川忠興は宮津に居城を構え、父親の藤孝は隠居城として田辺八田に築城に取りかかった。
細川忠興は慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでの軍功によって豊前国に封ぜられ、慶長6年(1601)信濃国飯田から京極高知が入国した。そして元和8年(1622)に3人の子に丹後国を3分封(宮津・田辺・峰山)し、田辺領はこの時から3万5千石となり、二男の高三が引き継いだ。そして寛文8年(1668)4代高盛の時、但馬国豊岡に移封され、代わって譜代大名牧野親成が入部し、以後幕末に至っている。
細川藤孝の田辺城築城は、天正11年(1583)に始められ、同13年には概略完成している。城は平城であって、東側を伊佐津川、西側を高野川で区切り、北側は海で、南の内陸部も沼地になった要害の地であった。北側海沿いに若狭(宮津)街道と、大手門の南に京街道が走り、二本の川と街道に囲まれた内部に堀をめぐらしていた。城は北から三の丸・二の丸・本丸と並んでいた。三の丸には中級士族の二の丸は上級士族屋敷地に当てられていた。下級士族は当初は町人と混住であったが、その後、京口・松陰・宮津口に集められている。
町人町は三の丸の西側を「御城下町」とされていて、これは平野屋である。さらに西に竹屋・寺内・西町・宮津口と連なっている。大手門を出て京街道の西側には本があった。
城下町を流れる高野川尻にある竹屋は商業の中心地であった。廻船問屋や商家が建ち並び、両岸には蔵や船小屋などが並んでいた。また、竹屋の商人は由良川の水運を支配していて、藩内外の産物の集散をはじめとして、近郷近在との商取引や、北前船や北国廻船で越前他日本海沿岸各地との交易もしていた。
今古い町並は旧町人町で残り、高野川と国道27号線に挟まれた間で展開する。高野川寄りから竹屋・平野屋・丹波と3本の南北の通りが通っているが、中央の平野屋の通りは一番商店街として発展したようで、建替えや改造で伝統的な家屋は殆どなくなっていたが、その両隣の竹屋と丹波の通りには、伝統的な商家の建物が連なっていた。特に伝統的な商家の建物が連なる竹屋の通りの裏側の高野川岸には土蔵が連なり、高野川を通して栄えていた様子が伺える。
町並み指数  60  
参考文献
   京都府の歴史散歩下  山川出版社  山本四郎  1995年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会


高野川沿いの倉庫群(竹屋町)

竹屋町の町並み

竹屋町の町並み

竹屋町の町並み

新の町並

丹波の町並

丹波の町並

丹波の町並

竹屋町の町並み

竹屋町の町並み
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