米原市域には中山道の番場宿・醒ヶ井宿と北国街道の米原宿の三つの宿場があった。今回訪ねたのは北国街道沿いの旧米原村米原宿である。江戸期を通じて彦根藩領であった。 江戸初期までは20軒に満たない寒村であったこの地に、彦根藩の命をうけた北村源十郎が慶長8年(1603)に、現在のJR米原駅辺りに米原湊を開削した。従来は朝妻湊が利用されていたが、彦根藩の後押しもあり、米原湊は松原湊・長浜湊と共に彦根三湊の一つとして発展した。 米原湊の発展を支えたのは、慶長16年(1611)藩の許可を受けて中山道の馬場宿から米原に通じる道路が開かれ、また翌年には内湖から琵琶湖への通行路として磯川が開設されたことにより大いに発展したのである。それは中山道の荷物を米原湊が扱ったことによる。柏原宿の記録によると美濃大垣や烏江(養老町)を経て伊勢桑名方面へ運ばれる商荷が多かったという。 京都から大津へ、また、北陸から塩津・今津へ運ばれた荷物は湖上を米原に運ばれ、中山道を陸路、馬場・醒ヶ井・柏原・関ヶ原、大垣、烏江などを経て、再び川船で東に運ばれた。 宝永元年(1704)のもので、寛保2年(1742)に書写された米原絵図によると、北国街道沿いに町並が続き、湊は北国街道の西方湖岸にあり、船入り堀の周辺には蔵が建ち並んでいる。米原は宿場町より湊町として発展した町である。高札場から北に進むと街道が分岐し、左側は北国街道、右側は中山道馬場宿に向う道である。家並みの南端部に広い構えの家が描かれ、源十郎と書かれていて北村源十郎家である。 元禄8年(1695)の記録によると人数879人とある。 明治22年に湖東鉄道(現JR東海道本線)が開通し、米原駅は北陸線との分岐駅をして重要な位置を占め、鉄道の町として発展していった。 町並は現JR米原駅の東側で旧北国街道に沿って展開している。米原駅の案内放送が風に乗って聞こえてくるほど近い位置に町並が広がっている。伝統的な様式の町屋が並ぶ景観は旧宿場町当時の面影を色濃く残している。中でも軒の低い中2階建ての連なる町並は圧巻であった。宿の北端「旅館かめや」の角には弘化3年(1846)建立の道標が建ち、それには「左北陸道 右中山道」と刻まれていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 滋賀県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 滋賀県の歴史散歩下 山川出版社 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 1995年 |
米原の町並 |
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