米原市番場は滋賀県の東部、琵琶湖の東縁に位置する中山道の宿駅であったところ。 江戸期を通じて彦根藩領。 古代の東山道が通り、鎌倉時代から宿の機能を果たしていた交通の要衝。慶長年間(1596〜1615)には米原に湊が築かれ、湊と中山道を結ぶ道も開かれた。米原湊への交通の便を考え、寛永年間(1624〜44)、中世からの東山道の番場宿(今の西番場)を北東の地に移して中山道の番場宿(今の東番場)とした。 番場村の高は「寛永高帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ではともに559石余で変化が無かった。元禄8年(1695)の記録では1,020人を数える。 天保14年(1843)の宿村大概帳によると、宿の町並は1町11間余、本陣1・脇本陣1、旅籠10、番場村の家数178・人数808とある。宿は北から下町、仲町、上町と続き、仲町に本陣や脇本陣や問屋場が有った。 宿駅の長さは中山道の中で最も短く、旅籠屋の数も中山道の中で、最も少ない部類に入っていた。 文化2年(1805)刊行の「木曽路名所図会」でも「この宿山家なれば、農家あるは樵夫ありて、旅舎も麁なり」と記されていて、旅籠なども少ない山村であった。 今、番場宿の横を名神高速道路が通るが、静かで落ち着いた集落であった。西番場から東番場に向かって歩き出した。江戸期の宿駅は東番場に置かれていたが、この西番場も宿場町の雰囲気を色濃く残した集落である。そして町並は宿場町の雰囲気を残したまま東番場の江戸期の宿場町に連なる。 妻入りで入母屋造り、または切妻造り2階建ての家屋が多い。今は殆ど桟瓦葺となっているが、宿場町当時は茅葺屋根だっただろう。入母屋造りの妻入りの家屋が多いが、正面から見ると中々重厚な感じがする家屋である。 東番場に入って直ぐの所に、戯曲「瞼の母」の主人公、番場の忠太郎で有名な蓮華寺への道が分かれている。更に進むと宿の中心である本陣・脇本陣や問屋場跡などの石の表示板が並び、米原湊への道を示す道標が立っていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 滋賀県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 近江中山道 淡海文化を育てる会 淡海文化を育てる会 1998年 中山道歴史散歩 有峰書店 斎藤利夫 1995年 |
番場の町並 |
番場の町並 |
番場の町並 |
番場の町並 |
番場の町並 |
番場の町並 |
番場の町並 |
番場の町並 |
番場の町並 |
番場の町並 |