この地の平坦部は、木津川の河底が高いため、排水の処理で終始苦労している地区で、それは今でも変わりない。 この地域の江戸時代の領主は、淀藩領・幕府領・公家領・旗本領・寺社領などが入り乱れていて、田辺村は、元禄14年の「元禄郷帳」では淀藩領となっているが、「享保村名帳」では淀藩領・公家山本家領・同梅渓家領となっている。 明治10年代の「京都府地誌」によれば、戸数216軒、人数948人。船は荷船1・漁船3で、明治30年頃までは、田辺浜より帆掛船が定期的に出帆し、その水運によって米麦・茶・綿・莚・割り木・白土などを積み出していた。 田辺村には南北の奈良街道(歌姫越)と東西の河内街道(現国道307号線)が交差している交通の要衝でもあり、物資の集散地でもあった。 平成初年頃までは国道307号線と、奈良街道とが交わっていた辺りには、古い町並みが残っていたのであるが、先日訪ねると、国道307号線はバイパスになって、旧道から南に移転したが、同時に旧307号線も拡張されたので、当時残っていた古い町並みは全く消えてしまっていた。 でも数は少ないが、奈良街道沿いには、当時のままの古い町並みが点在し、昔の面影を今に伝えていた。 切り妻造り、中2階建て平入り、虫籠窓、格子の伝統的な家屋が点在し、中には煙り出しや駒つなぎを備えた商家の建物もあった。 京都府の歴史散歩下 山川出版社 山本四郎 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 京都府の地名 平凡社 中下邦彦 |
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