古代以来、京都への東からの入口は三条街道と渋谷越(苦集滅路くづめじ)の二つがあった。 三条街道は三条大橋(中京区)から粟田口(東山区)・日ノ岡を経て逢坂の関を越えて大津に至る道。もう一つは渋谷越えで、五条橋口から清閑寺山と阿弥陀ヶ峰の谷間を通って山科に至る道で、古くは苦集滅路とか滑谷と記して「しるたに」とも、また醍醐に向かうので醍醐道とも呼ばれていた。 この二つの道筋は、近世以前には京都と東国を結ぶ重要な出入り口であった。 この渋谷道の道筋の鐘鋳町は豊臣秀吉が方広寺創建に際し、大仏殿巨鐘鋳造炉鍛場の跡と云われ、寛永14年(1637)洛中洛外惣町数人家数改日記に、既に、鐘鋳町南側・北側・東側とみえる。正徳4年(1714)の洛外町続町数小名家数改帳には鐘鋳町南組のみが載り、45軒が記されている。 上新シ町・下新シ町は正徳4年(1714)洛外町続町数小名家数改帳には上新シ町に34軒、下新シ町に38軒と家数が記載されている。 明治28年下新シ町・上新シ町・芳野町にまたがる地帯に民営の村井煙草製造工場が創業し、明治37年に政府が買収して専売局京都製造所となった。今でも当時のレンガ建ての建物が渋谷道沿いに異彩を放っている。 東山通りより西側の渋谷道沿いの町並は、昔のままの湾曲した道筋で、車もあまり通らない落ち着いた町並であった。殆どの家屋は建替えられているが、伝統的な家屋も僅かながら点在していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 京都市の地名 平凡社 下中邦彦 1979年 |
渋谷道東山区鐘鋳町の町並 |
渋谷道東山区鐘鋳町の町並 |
渋谷道東山区鐘鋳町の町並 |
渋谷道東山区下新シ町の町並 |
東山区慈法院庵町の町並 |
東山区鐘鋳町の町並 |