京都市に西陣と云う地名は無いが、一般に西陣と呼ばれている。西陣警察署・西陣小学校・西陣郵便局・西陣公園・西陣病院・西陣織物館など多くのものが西陣と名前が付いている。 西陣の区域は、はっきりと決まっている訳で無いが、一般には北は北大路通り・南は丸太町通り(正確には一条通り)・西は千本通り・東は新町通りに囲まれた、南北2.5km、東西1.3kmの地域を云われている。 この西陣あたりの上京の町割りをつくったのは豊臣秀吉と云われ、@洪水から町を守る御土居の建築、Aこれまでの道路に加え道路と道路の中間に南北に走る道路を造り短冊型町割りにして都市空間の有効利用でもって商業の発展を促す。B町中に散らばる寺院を1ヶ所に集めて、跡地を商工業者に提供するという3本柱であった。 江戸期に入って江戸幕府の京都支配が確立されるにしたがい、京都は急激な発展をとげ、17世紀の前半には、市域の拡大、人口の増加、経済活動の分野においても、江戸期最高の発展ぶりをみたのである。 そして19世紀に入り、西陣焼けから復興した上京地区であったが、京都が幕末政局の舞台となり大きく変貌した。釜座通り下立売一帯の町には立ち退きが命じられ、広大な京都守護職邸が建設されたり、あちこちの町には緒大名の京屋敷が新設・増築された。そして元治元年(1864)の蛤御門の変にのような政治不安が広がった。 即ち、京都における江戸幕府支配は終わり、新政府による京都支配が開始され、諸藩の合体によって京都の行政と治安が行われるようになった。こうした不安定な支配体制は鳥羽・伏見の戦いを引き起こし、新時代へと移行していった。 京都の織物は、平安時代は宮中や古代貴族の衣服を織る織部司に始まり、今の上長者町・下長者町附近は織部町・織手町として栄えた。平安末期にすたれ、鎌倉時代には少し発展したが、応仁の乱でまたすたれた。 応仁の乱で堺へ逃れた工人が中国の技術を身につけて帰り、西陣織の発展をはかった秀吉の奨めで、練貫方という団体をつくり、練貫(生糸を経、練糸を緯として織った絹)や羽二重を製作したり、西陣跡に大舎人座をつくり織物を生産した。 17〜18世紀には2000〜3000軒の織屋があり、友禅染・綴錦など改良工夫を加えて行った。 18世紀初頭頃から安価な桐生織物に押されていた上に、享保15年(1730)の西陣焼けで一時衰え、織物仲間を造り発展を願ったが、天明の大火でまた大打撃をうけた。明治に入って洋式の技術が入ってきたが、業界の浮き沈みも多く、長く続く織屋は少なかった。 町並みを歩くと、京都の町家特有の、間口の狭い奥行きの長い、うなぎの寝床式の町家である。それが両隣に互いに寄り合い、小さな通りに面して向かい合って並んでいる。 軽自動車が通るのがやっとと言う狭い道路がT字型に折れ曲がり、これが現代の大都会かと思うほど、江戸時代以前からの町割が守られている。京都は第二次世界大戦の戦災に遭っていないから、町割がそのまま残ったのだろう。この車どこからこの駐車場に入ってきたのと考える場面が多くあった。 今、西陣界隈を歩くと、かってのバブル期の様に織機の音はしなくなったが、中二階・切り妻造り・格子戸などのの伝統的な町家で西陣織や呉服・染色の問屋業が営まれていたり、町家でもって西陣織や友禅染めの着物が造られている。これらの京都の伝統産業は大きな工場から生まれるのではなく、間口の狭い小さな町家の奥で細々と営まれている。 そんな中でも伝統的な町家はどんどん取り壊されて、広い道路沿いでは大きなビルになりつつある。町並みの保存と再生の調和を早くせねば!! 京都府の歴史散歩上 山川出版社 山本四郎 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 |