今、関西で間人と言えば、高級松葉ガニの間人カニを食べる所との印象が深い丹後半島北部の集落である。 奈良時代には既に見える郷名で、中世には朝鮮半島との交流があった記録がある。江戸時代に入り、はじめは宮津藩領であったが、享保2年(1717)より幕府領となる。 古くから港が開かれ、丹後海岸の海上交通の中心であり、漁業が古くから発達していた。特に、江戸時代宝暦年間(1751〜64)以降からは、北前船の寄港地として発展し、同時に附近の村々や丹後奥3郡の需要物資の中継地としても機能していた。 弘化年間(1844〜48)には300石積一艘、100石積2艘など18艘が間人村にあり、物資中継地として加賀屋などの問屋も生まれた。 陸路は間人から竹野川沿いに南へ、弥栄を経て峰山に抜ける間人街道。間人から久僧まで海岸線を東に進み、碇峠を経て本庄・筒川に抜ける伊根街道があり、間人から網野へは西方街道で通じていた。 明治中頃に編纂された「共武政表」によると家数629・人数3,087とあり、市町村合併史によると明治21年の家数615とある。 間人は丹後海岸で最も早くから漁業が発達した地で、江戸時代は延縄による漁法だったが、江戸末期からは手繰網の漁法に代わって行った。 間人集落は海岸段丘上に開ける。段丘上海岸線に平行に一本の道が通るが、この道が古くからの街道筋で、集落はこの道の両側に広がっている。昔からこの地域の政治・経済・文化の中心地だったことは、この街道を歩くと十分感じ取れる。 この旧街道筋が商業地、その海側と山側は漁村集落だったようで、軽自動車でも通り難い細い路地道に住宅が密集している。これと云う重厚で古い形式の家屋は見られないが、板貼りの住宅が建ち並んでいる。 そしてあちらからも、こちらからも織機の音がガシャガシャと聞こえる。ああそうだこは丹後縮緬の産地なんだ。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 京都府の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
丹後町間人の町並み |
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