草津市の町並み 
草津・大路・矢倉・矢橋
地図


矢倉の町並
  慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、福島正則が草津を掌中におさめ、翌慶長6年(1601)宿駅制が定められ、近世の交通体系の整備とともに、草津宿が東海道の宿駅として位置づけられた。その後は参勤交代の制度とともに宿の形態や機能の充実が図られた。
正徳2年(1712)六代将軍徳川家宣は全国の主要街道に貫目改所を置き、物資の動きをチェックすることにし、草津宿には品川宿・府中宿とともに重要地として改所が設けられた。
草津宿は京側より宮町、六町目、五町目、四町目、三町目、二町目、一町目、西横町、東横町の九ヶ町からなる。町並みは天保14年(1843)の『宿村大概帳』によると、南北七町十五間(約800m)東西四町三十八間(約500m)で近江の宿駅の中では最も短い。本陣二軒、脇本陣二軒、旅篭七十二軒を数え、四町目に問屋場・貫目改所、二町目・一町目にそれぞれ本陣があった。脇本陣は江戸時代を通じて推移はあるものの二軒から四軒が一町目から三町目に立地していた。
このように草津宿では、本陣・脇本陣などの休泊の機能は一町目から三町目に、問屋や人馬継立ての機関は四町目あたりに立地していた。貫目改所は草津宿問屋場に併設されていた。街道を往来する荷物の重量を検査するとともに、一種の関所的な役割も果たしていた。
本陣は田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣であったが、九蔵本陣は明治以降に絶えて、建物も姿を消してしまい、七左衛門本陣だけがほぼ完全な姿を今に残している。田中七左衛門本陣は本陣職を拝命したのは寛永元年(1624)からだから、東海道整備初期から本陣をつとめた家だ。間口14間半、敷地1305坪、建坪468坪で部屋数39室であって、本陣職のかたわら材木商を営み、そのため「木屋本陣」といわれた。そして明治3年に廃止されるまで246年間本陣職をつとめている。
草津宿は商店街になってしまって、江戸の面影は殆ど残っていない。しかし草津宿から京都側の東海道筋の矢倉あたりは、草津宿に続く街道の町で宿場ではないが、古い伝統的な中二階建、虫籠窓、格子を持つ商家が軒を並べていて街道の面影をよく残している。ここは宿場に続く商業の町だったことがわかる。
四町目から一町目にかけては、問屋場・貫目改所亦四郎の屋敷、脇本陣・柏屋十右衛門、三度飛脚取次処・荒物屋九右衛門、本陣田中九蔵家、脇本陣・仙台屋茂八家、脇本陣・藤屋興左衛門家、脇本陣・大黒屋弥助家、本陣田中七左衛門家などがあった。
今は本陣田中七左衛門家が殆ど完全な形で残り、その他は商店街に埋もれてしまい、江戸時代の面影は全く無くなっていた。
中山道との分岐を東に進むと横町である。この町は江戸中期以後に整備されたもので、この横町の東端あたりが東海道草津宿の江戸側の入口であった。京都側の宿入口には、黒門があって遠見遮断が施されていた。
矢橋港は近江八景にも出てくる「矢橋帰帆」の場所で、草津宿に続く矢倉から分岐して琵琶湖へ出て、大津石場への渡しが発着した港だ。 
町並み指数 40
参考文献     
   近江中山道  サンライズ出版  淡海文化を育てる会  1998年
   近江東海道  サンライズ出版  淡海文化を育てる会  1997年
   滋賀県の歴史散歩上  山川出版社  滋賀県高等学校歴史散歩研究会  1993
   滋賀県地方史研究紀要  滋賀県立図書館長  太田主基  昭和49年
   角川日本地名大辞典/角川書店/角川日本地名大辞典編纂委員会/昭和54年

草津宿旧五丁目辺りの町並み

田中本陣前の町並み

草津宿田中本陣

旧五丁目辺りの町並み

矢倉の町並み

矢橋の町並
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