京都市街から真北約10kmのところに鞍馬寺とその門前町がある。京から鞍馬を経て丹波に至る鞍馬街道沿いには伝統的な商家が今も残り、駒繋ぎを今でも残し、木芽漬を商う商家が健在である。 いつ訪ねても参詣客の多い元天台宗の古刹で、門前の町並近くの仁王門がありそこからケーブルで多宝塔までは楽に行ける。 鞍馬寺は延暦15年(796)藤原伊勢人が創建したと伝える古刹で、寛平年間(889〜897)には真言宗になるが、天永年間(1110〜1112)には天台宗寺院となった。幾多の火災や戦火で再三焼けたがその都度再建され、また、数度の盛衰を経て、現在の堂宇は明治期の再建。江戸期の寺院組織は宝積院や善門坊など10院9坊を数えたが、明治の廃仏毀釈で、院坊の廃止で大きな打撃を受けた。 昭和22年から鞍馬弘教を開宗、2年後その総本山となる。境内の由岐神社は鎮守社で、毎年10月22日の「鞍馬の火祭り」で有名。社殿は慶長15年に豊臣秀頼の再建で寺内最古の建築物。 寛仁年間(1017〜20)に愛宕郡内の8ヶ郷が神領として、賀茂上・下神社に寄進された際、鞍馬寺の敷地や周辺寺領も寄進区域に含まれていたが、寄進地からの除外を認められ、以来この地は鞍馬寺領として推移する。 中世には京の都から隔たった奥深い山里であるため、世を逃れた人たちの隠れ住む格好の場所であった。京都が戦乱の影響を受けた時期には、ことにその傾向が目立った。また、「源平盛衰記」などによると、貴賎の上下を問わず詣でる人が多かったらしい。人々は参詣と同時に鞍馬の桜や紅葉を楽しんだ。その当時から鞍馬の物産として木芽漬は有名で「庭訓往来」にもその名が記されている。 江戸時代には丹波方面から京都へ持ちこまれる薪・炭の問屋が軒を並べて賑わった。明治元年の戸数130戸の内、薪屋117軒、炭問屋13軒という盛況であった。 町並は鞍馬川と鞍馬街道に沿った道両側の一列の町並で、切り妻造り、中2階建て、平入り、格子、桟瓦葺きの民家の町並で、駒繋ぎの金具を残している商家の建物が多くあった。煙だし、本卯建を備えた商家の建物もあり、見応えのある落ちついた町並みであった。 町並の中に赤い庭石の鞍馬石を扱う石屋さんがあり、貴重品になった鞍馬赤石を加工されていた。 また、匠斎庵という木芽漬を商う商家があり、その主屋は宝暦10年(1760)建築で国の重要文化財に指定されていた。 京都府の歴史散歩中 山川出版社 山本四郎 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 |
鞍馬寺から上の鞍馬本町の町並 |
鞍馬寺から上の鞍馬本町の町並 煙だしと本卯建の家 |
鞍馬寺から上の鞍馬本町の町並 |
鞍馬寺から上の鞍馬本町の商家(重要文化財) |
鞍馬寺山門前の町並 |
鞍馬寺から下の鞍馬本町の町並 |