東一口(ひがしいもあらい)は久御山町の北西部に位置し、木津川氾濫原の北部にある巨椋池(おぐらいけ)の池水の流出入口であったが、干拓後の現在もまお水郷の様相を残している。 文禄3年(1594)伏見築城を開始した秀吉は、それに関連するものとして宇治川を伏見城下に迂回させ、巨椋池畔の各所に堤防を築いて、そこに流入していた緒河川と巨椋池を分離した。 その後巨椋池は東・西一口地区のみを唯一の池水流出入口とした。それにより巨椋池は大内池や中内池などのいろんな池に分断された。 そして農民は巨椋池沿岸の随所に新田を拓いたが、低湿な土地であったため、数年に一度は洪水の被害を受け、不安定な農業であった。 半農半漁の集落東一口村は、江戸はじめには伏見弾正町・三栖村・小倉村と共に巨椋池の漁業権を与えられていたが、常にその中核をなし、度々起こる漁場を巡る争いでも、東一口が勝訴している。 漁業鑑札の配分では文化8年(1811)には弾正町2枚・小倉村3枚・三栖村5枚に対して東一口村は7枚所有し、漁業従事者は74人で、圧倒的な優位で巨椋池漁業を行っていた。 江戸時代の東一口村は巨椋池西岸の大堤防の片側に盛土して家が建ち並ぶ東西に細長い集落で、全長1,300m、最大幅100m、最小幅27m内外の集落であった。 そして、今でも他の山城地区の農村集落で見られない特異な町並を形成している。干拓されたとはいえ、集落の南北には水郷を思わせる排水路が通り、集落の拡張が見込めないので、江戸時代のままの集落形態が残っている。 東一口集落の中程に大きな長屋門を構えた山田家がある。本山田とよばれ、江戸時代からの大庄屋で、淀川・巨椋池の漁業者の代表として君臨した家で、巨椋池漁業関係の古文書や古地図を多く所有している。 明治39年に第一次淀川改修工事が竣工して、巨椋池と宇治川が切り離された。昭和8年から巨椋池の干拓工事が始まり昭和16年に完了したが、久御山町辺りは大都市近郊の農業地帯でありながら、近年まで都市化が進まなかった。久御山町に発展の兆しが見えたのは、昭和41年に国道1号線枚方バイパスが町の中央部を貫通して以来で、その後は目覚しい発展を遂げている。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57 京都府の地名 平凡社 下中邦彦 |
山田家の長屋門 |
東一口の町並 |
東一口の町並 |
東一口の町並 |
東一口の町並 |
東一口の町並 |
東一口の町並 |
東一口の町並 |
東一口の町並 |
東一口の町並 |