木之本の地蔵さんで知られている木之本町。 木之本の中心街の坂道を東に300m上がった突き当たりが、木之本地蔵として有名な長祈山浄信寺である。木ノ本は古来から浄信寺地蔵の門前町として、また、北国街道と北国脇往還との分岐点として、本陣を持つ宿場町として栄えた。 天正13年(1585)山内一豊がこの地の知行を命じられ、その後石田三成が20万石で佐和山城に入りこの地を支配した。 関ヶ原の戦い後は彦根藩井伊家の知行地となった。元禄11年(1698)の記録では、地蔵前の高札場から南に119軒、北に74軒、計193軒が立ち並ぶ宿場町であった。当時の家並みは一筋街として人家は街道の東西両側に並んでいた。民家の最大の間口のものは15間(27m)もあった。そしてその後も大きな変化がなく、宿場として繁栄していたとはいえ、その大部分は農家で、問屋、馬持、本陣、脇本陣、旅篭等が点々とその間に混在し、且つ数十戸の商舗が混じっていた。 木之本における牛馬市は室町末期の開始と云われ、伊勢・美濃・尾張の商人がこの地で売買し、近世に入り彦根藩も保護奨励した。 浄信寺(木之本地蔵本堂(地蔵堂)の本尊である木造地蔵菩薩立像(国重文)は仁治3年(1242)の銘があり、眼病に霊験あらたかと信じられている。 門前町、宿場町の木之本は元文4年(1739)に270戸の家屋が焼失、延亨元年(1744)に156軒が大火にあった。二度の大火にあった木之本宿は、道路を広げて中央に防火用水路を通した。これはまた木之本の牛馬の市場のためでもあった。木之本宿には本陣、脇本陣、問屋が各一軒置かれていて、本陣は竹内家が世襲しており、明治維新は竹内五左衛門であり、脇本陣は酒井伝右衛門、問屋が藤田庄左衛門であった。 彦根藩では慶長の検地帳を没収したため、藩領内には検地帳がほとんど存在しなく、当時の様子のわからない部分が多く、人数・家数なども不明である。明治13年の戸数290軒・人数1031人となっている。 木之本地蔵を出て南直ぐに、木製の薬看板を掲げた薬屋、本陣薬局竹内家がある。木之本宿の本陣で今は薬局である。古風な看板だが今も販売されている薬があつた。建物は切り妻造り、低い中二階、平入り、桟瓦葺で入り口に「駒繋ぎの環」が取り付けられていた。主屋の入り口に赤い毛氈を敷いた縁台が置かれてあり、昔ながらのお客を迎える心遣いが暖かく感じられる。 その前が地酒清酒「七本槍」の造り酒屋。切り妻造り、中二階、格子、平入り、桟瓦葺、大戸付きだが、屋根は複雑で三層になっていた。奥には赤レンガの煙突、酒蔵が連なり明治初期の繁栄ぶりが垣間見られる。入り口には造り酒屋のシンボル杉玉が揚がり、駒繋ぎの環も付けられていて、ここも本陣薬局と同様、店先に赤い毛氈を敷いた縁台が人待ち顔でお客を待っていた。 この辺りから南には、切り妻造り、中二階、平入り、桟瓦葺の伝統的な商家が並び、酒や醤油醸造の看板を掲げている家が多くある。この辺りは田神山の良質な地下水で酒、醤油造りが昔から盛んだ。 木之本地蔵の北に元庄屋の家がある。切り妻造り、中二階建て、白漆喰塗り込めでガラス窓になっていたが、かっては虫籠窓だったであろう。袖壁、煙りだしも備わり、千本格子が一階全面にあり、一部犬矢来も設けられていた。建物は江戸時代末期の弘化4年(1847)の建築。 さらに北に旧脇本陣の家がある。百薬の長「桑酒」清酒「北国街道」醸造元。江戸時代末期には伝馬所であった。建物は入り母屋造り、二階建て、平入り、桟瓦葺、一階も二階も格子窓であった。 滋賀県の歴史散歩下 山川出版社 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 1995 近江伊香郡誌 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 |
造り酒屋 |
本陣薬局の木製の看板 |
北国街道地蔵さんより北の町並み |
北国街道地蔵さんより南の町並み |
北国街道地蔵前の町並み |
北国街道地蔵さんより北の町並 |
造り酒屋 |
北国街道地蔵さんより南の町並み |