木津町の町並み
南垣外・西垣外・瓦谷
地図


旧奈良街道沿い旧本町通りの町並

  京都府南部木津川屈曲部の左岸に位置する木津町は、奈良街道沿いに発達した町である。
木津は木津川船運の拠点であり、奈良街道の街道集落として木津町が形成されて賑わった。
奈良街道は山城町椿井から上狛を通り、木津の渡し(上狛の渡しを経て木津へ、更に市坂、高座そして奈良に通じていた。
山城町の上狛と木津町木津を結ぶ木津川の渡しは、現在の泉大橋(現国道24号線)よりやや下流側、泉橋寺より更に下流に位置していた。
中世に続き江戸時代になっても木津川の河港として、また、街道の発達による宿駅としての機能も加わり、木津川・奈良街道沿いの商業地、物資の集散地として木津は発展を続けた。そして伏見、宇治、淀、八幡、と並ぶ山城五邑の一つと云われた。
しかし、たびたび洪水にも見舞われており、例えば正徳2年(1712)の洪水によって近在辺境の人々数千人が溺れ死んだ。
淀川とその支流である宇治川・木津川は江戸時代を通じて物資輸送の大動脈であった。淀川には、中世以来淀川を航行していた淀船と、江戸時代になって現れた30石〜200石までの大型の過書船とが就航していた。過書船は尼崎・大坂から伏見の間を航行していたが、過書船は船体が大きく、渇水時や宇治川や木津川での航行はできなかった。淀船は過書船より小型で20石積み以下が標準であった。
木津川上荷船は淀過書船との競合を避けるため笠置〜淀・伏見間とし、積荷は下航のみと規定するなど互いに規制を設けたり、訴訟を繰り返したりしている。
木津には淀川支流で活躍した淀上荷船の船株が、江戸中期で22株も認められていて、積荷は米・菜種・薪炭・雑穀・茶・柿・竹などを大阪へ運び、塩・油粕などを求めて戻った。
明治29年奈良鉄道によって、京都〜奈良間が結ばれた。同31年になると、関西鉄道が名古屋方面から延長され大阪片町まで通じ、これまで船便で3日かかった大阪行きは一日もかからなくなり船便は一挙に衰退したが、木津駅は関西本線・桜井線の貨物列車編成駅となり、貨物駅の機能を有することになり、船運は衰退したが、交通の要衝としての機能は残された。
そして大正中期には木津川の上流に造られた発電所の影響を受けて、水かさが減少し船の運航は停止し、河港としての役割は終わったのである。
今、古い町並みは旧奈良街道沿いに多く残っていて、今も往時の繁栄ぶりを窺うことができる。多くは商家の建物であり、切り妻造りの虫籠窓を備えた中2階建てで、格子、出格子を備え、主屋の左右どちらかに土蔵を持っている。
そして、大和に近いからか、主屋の屋根の一部が低くなった、大和棟に近い建て方の商家も多くあった。
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参考文献
  京都府の歴史散歩下  山川出版社  山本四郎   1995年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年 
  木津町史  木津町  木津町史遍さん委員会  1991年
  木津町の歴史  木津町  木津町の歴史編纂事務局  1993年


木津町旧本町通りの町並み

木津の町並み

木津町旧本町通りの町並み

旧奈良街道沿いの町並み

旧奈良街道沿いの町並み

旧奈良街道沿いの町並み
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