加悦町は京都府北部、鬼で有名な大江山の北西麓に位置し、丹後ちりめんで有名なところである。 天正8年(1580)に細川藤孝・忠興親子は織田信長から丹後一国を与えられ、宮津城と田辺城を築いた。加悦城は細川氏の重臣有吉将監立言に与えられた。関ヶ原の戦い後、細川氏は豊前国中津に移封され、その後に京極高知が入った。元和8年(1622)高知が没すると、丹後は3人の子供に分割され、加悦は長子の京極高広の宮津藩7万8千石に属した。 加悦は江戸の初期から宮津藩領で、京極高知・京極高広と支配者がかわり、一時幕府領になった以外は宮津藩領のまま明治を向えた。宮津藩主は幕府領の後、永井・阿部・奥平・青山氏とかわり、宝暦8年(1758)以降は本庄松平氏による支配となった。 この地は室町時代以前から「あしぎぬ」「丹後精好」「丹後つむぎ」の名で知られ、農業の余業として生産されていた。中世絹織物業の中心は京都であったが、室町幕府の政所が、賀悦庄内の「大口袴」を織る在所に注文した史料があり(親元日記)、この史料により、賀悦庄のちりめん機業は室町中期ころよりすでに発達し、絹織物を特産品として生産していたようだ。 享保5年(1720)丹後峰山の絹屋佐平治が京都西陣から製織技術を伝え、続いて享保7年(1722)には後野の木綿家六右衛門が、加悦悦の手米屋小右衛門と三河内の山本屋佐兵衛を京都西陣に派遣して秘伝の「ちりめん」の製織技術を学ばせ、丹後ちりめん織りの技術革新を図った。 天保12年の家数150軒・人数751人。幕末の家数152軒・人数774人であった。 明治から昭和初期の加悦は、丹後ちりめんの一大生産地として、また、丹後と京都を結ぶ物流の拠点としても発展し、その賑わいぶりは相当なものであった。加悦町を南北に貫く旧街道に沿って、江戸から明治・大正・昭和初期にかけて、ちりめん産業がもたらした建物が集まっている地域がある。この地域を特にちりめん街道と言い各種商店が軒を連ね大変活気に満ちていた。 この街道は戦国時代の支配者 細川氏の重臣有吉将監立言が、天正8年(1580)〜11年頃に整備したと見られている。有吉立言は城を整備し、加悦奥川と野田川に囲まれた加悦を近世初期に城下町として建設した。しかし、加悦が城下町として機能していたのはわずか3年足らずで、その後は市場町として発展したものである。 伝統的な建物の民家は、切り妻造り平入り、中2階建、桟瓦葺、格子の付いた建物で、白い漆喰壁の家もあるが、殆どは黄土色の土壁である。どの家も玄関入口は街道に面して備わっているが、建物の外面より1m〜1.5m位奥まって設けられている。冬期の雪対策だ。なかには卯建や煙出しを備えた民家もある。 大型の伝統的な建物の商家が街道筋に点在していた。白漆喰壁の側面に「産」の文字が刻まれている旧丹後産業銀行の蔵が残っていた。加悦町役場は木造洋風2階建の寄棟の建物で昭和4年に完成したもの。元造り酒屋の酒蔵も街道筋の景観を引きたてている。旧郵便局の建物は文化元年(1804)に建てられた街道筋で最も古い建物だ。明治時代に建てられたちりめん工場も三棟残っていた。 京都府の歴史散歩下 山川出版社 山本四郎 1995年 加悦町史/加悦町 加悦町史編纂委員会 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 |
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