京都市西京区樫原の町並み
樫原石畑町・樫原宇治井町・樫原宇治井西町
樫原下ノ町・樫原上ノ町
地図


樫原の町並み
 樫原(かたぎはら)は洛中七条通り西詰め丹波口に発した旧山陰道と、物集女(もずめ)街道(四条街道と西国街道山崎宿を結ぶ)が交差する交通の要衝で、近世は樫原宿の街村でもあった。
樫原の名は、元和元年(1615)の「大原野一覧」に「カタギ原の町」とあり、貞享2年(1685)の「京羽二重」に「樫原 七条通りの西 丹波へこゆる道なり」と見える。宝暦4年(1754)の「山城名跡巡行志」に「この所駅なり、旅宿・茶店等これあり、‥‥」と見え、この頃には既にある程度の宿場町となっていたのだろう。但し、「京都府地誌」岡村の項に「樫原駅 本駅にあらず」と記されているごとく、正規の宿駅でなかった。
江戸時代、参勤交代の大名行列が京都の町を通過するのは許されず、東海道から山陰道にかかるときには、大津から伏見を経て樫原を通り老ノ坂を越えた。
樫原にも本陣が設けられていて、玉村家(現存)が本陣職を勤めていた。そのほかに旅籠もあり盛期には11軒の宿屋があったという。しかし、江戸中期以降、淀川水運の隆盛と瀬戸内海航路の発達に伴い、樫原宿の利用度は低下し、本陣も丹波・因幡・伯耆など山陰筋諸大名の利用に限られた。
領地関係を見ると、太閤検地は当然当地でも行われているが、荘園制下での複雑で錯綜した領有関係は結局整理できずに終わっている。江戸幕府もこの地域の特殊性を認めざるを得ず、一村のうち、天皇家直属の御料、皇族・宮家領や公家領・所司代領・社領・寺領などに分けていた。
この地の産物は京都を控えて、菜種をはじめとして野菜や筍の栽培がさかんであったが、とりわけ筍は日本一の品質ともてはやされ、筍の生産は今で続けられている。
この旧樫原宿内の山陰道は、当時としては広い街道だったのだろう。また広いバイパスが作られたにもかかわらず、旧街道を通る車が多く、写真を撮るのも命がけのような状態だ。
でも、街道当時を彷彿とさせる町並みが残っている。
本陣玉村家も現存し、京都洛外の本陣遺構としては貴重な文化財で、上段の間も残っている。町並みを構成する個々の伝統的な民家は、どの家も綺麗に整備されている。阪神大震災時に
どういうわけか、この樫原は大きな被害を受けているので、そのときの修復のためだろう。
兎も角、町並みが大変綺麗で落ち着いて眺めていたいのであるが、車がビュンビュンと通過していくのには閉口した。地元では樫原町並み整備協議会を結成して町並み保存に向かって努力されていた。 
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参考文献      
  京都市の地名  平凡社  下中邦彦  1981年
  京都府の歴史散歩中  山川出版社  山本四郎  1995年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年

樫原の町並み

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樫原の町並み

樫原下ノ町の樫原本陣玉村家住宅
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