大津市堅田は琵琶湖を北湖と南湖に分けている最狭部の西岸に位置する。 堅田は平安時代から湖上交通の拠点として成長を遂げていた。11世紀の末、堅田には京都賀茂御祖社(下鴨神社)の御厨が設置されたのである。堅田はこれによって賀茂御祖社に鮮魚を献上することになったが、同時に漁業権の確保という特権を獲得したのである。 言い換えれば漁場が決められていた他の漁師と違い、堅田の漁師は湖を自由に通行できる漁業権を持ったのである。この平安後期の時点で、堅田は水運・漁業両面にわたってかなり強力な特権を持っていた。 戦国期に入って堅田は、一時取り上げられていた諸浦の知行が堅田に返付されることとなって、その支配権を維持し、永禄12年(1569)には、織田信長によって湖上の支配権が安堵されるなど、地域的団結をはかりながら、その特権的地位を守り続けたのである。一時信長に抗したかと思うと、船100艘を信長軍に提供したり、又、今堅田が明智光秀軍に攻撃だれるなど、振幅の大きな揺れがあったが、それが一応の確定をみたのは、豊臣秀吉政権が成立してからのことであった。 天正11年(1583)、堅田は秀吉の意をうけた浅野長吉(長政)によって、その特権を保証されることになった。また天正12年になると堅田浦の船大工は、大津浦とともに、諸役免除の特権を秀吉から受け、天正15年(1587)になると豊臣秀吉が大津百艘船制度を設けた。堅田は漁業・水運を中心に営みを続けることになったのであるが、堅田の水運は大津浦の百艘船の急成長によって、中世以来の勢いは次第に減じていたが、これに対して漁業は大きく発展していた。これは慶長16年に、堅田漁業の特権が江戸幕府によって安堵されたことにもよるが、漁師仲間を結成し団結を固めていたためでもある。 堅田の猟師の漁業が活発化してくると、当然、漁場をめぐって論争が頻発した。元禄期以降も紛争は絶え間なく起こり、他の漁民からの攻勢などにより、文政5年(1822)の鳥猟をめぐる争論をきっかけに、江戸幕府は、中世以来所持した堅田浦の諸特権を弱める裁決を下した。堅田漁業の独占的立場は大きく後退することになったのである。 慶長5年(1600)以後、堅田ははじめ幕府直轄領となり大津代官支配地、元禄11年(1698)〜文政9(1826)まで堅田藩領となり、のち佐野藩領となる。 堅田は浮御堂で知られている。近江八景の一つ「堅田落雁」で有名な堅田浮御堂である。正式には海門山満月寺という臨済宗大徳寺派の寺である。琵琶湖に面した景勝地で、昔から多くの文人墨客が訪れている。現在の浮御堂は昭和12年の再建で、湖中に突き出ており、岸と堂とを25mほどの橋で繋いでいる。 浮御堂近く本福寺・伊豆神社・光徳寺辺りの町並みは、迷路のように細い路地が絡み合っている。路地の角を曲がるたびに神社仏閣が現れる、これは堅田特有の光景だろう。浮御堂より北への街道筋は一本道で、閑静な町並みの中を歩くと天然図画亭がある。中世からの豪族三家の一つに数えられた居初家であり、書院から湖東の連山を望む借景は雄大な庭を演出している。天和から貞享(1681〜88)にかけて造られたものという。 その先に湖にしては大きな漁港の堅田漁港がある。中世から漁業で栄えた漁港の名残であろうが、立派な漁港にびっくりさせられる。 滋賀県の歴史散歩上 山川出版社 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 1993 大津市史北部地域 大津市 大津市史編纂委員 滋賀県地方史研究紀要 滋賀県立図書館長 太田主基/昭和49年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 |
浮御堂 |
本堅田の町並み |
今堅田の民家と琵琶湖大橋 |
本堅田の町並み |
本堅田にある天然図画亭 |
本堅田の町並み |