柏原の町並み  
柏原
地図


伊吹堂亀屋佐京店前の町並
 滋賀県の伊吹山の南に位置したところに旧中山道の柏原宿がある。かっては伊吹艾で名を売っていたが、今では艾の製造販売の店が一軒残っているだけである。
柏原村は古くは豊臣秀吉の蔵入地だったが、その後、徳川幕府の直轄地となり、本郷村にあった陣屋の代官の支配下にあった。そして江戸時代中頃の享保9年(1724)から大和郡山藩領となって神崎郡金堂村(五個荘町)の陣屋の代官の支配のまま明治維新に至っている。 
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康により、主要街道の整備がはじまり、まず東海道が整備され、中仙道がこれに続いた。
よって柏原を通る街道は、鎌倉時代からは東山道、江戸初期の頃は中仙道、江戸中期(正徳6年・1716年)からは中山道と呼び名が変わっていった。美濃の国から近江へは入った最初の宿が柏原で、そこから醒ヶ井、番場、鳥居本、高宮、愛知川、武佐、守山と続いていた。
柏原は国境の町であり、織田信長、豊臣秀吉等その当時の権力者達は必ず柏原で休憩したり宿泊したりした。信長、秀吉は成菩提院を使ったが、徳川家康は柏原西部の土豪西村氏の邸を使った。家康が8回以上、二代将軍秀忠も4回使い、元和9年(1623)三代将軍家光の上洛のとき、御茶屋御殿(柏原御殿)を建築した。
しかしこの柏原御殿は、柏原宿の整備、つまり本陣や脇本陣が完成したのと、上洛が無くなり不要となり、元録2年(1689)に終止符をうち解体されるまでの66年間この御殿は将軍の休泊施設として機能した。
柏原宿の戸数・人数は延宝3年(1675)296軒、享保8年(1723)463軒・1,658人、慶応2年(1866)364軒・1633人と減少している
天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によると、宿駅の町並みが13町、家数344軒、人口1468人、旅篭22軒、本陣・脇本陣各一軒、人馬継立問屋場5ヶ所が存在していた。宿のほぼ中央を流れる市場川の東側に本陣、さらに3軒おいて脇本陣があった。本陣・脇本陣ともその成立以来、廃止にいたるまで当地の有力者の南部氏が世襲していた。 
柏原宿は中山道の宿駅の中では比較的大きいほうに属していた。参考までにこの辺りの宿場の規模は、大きい方から高宮宿は835軒、人口3560人。守山宿は415軒、人口1700人。そして柏原宿で、次いで愛知川宿の199軒、人口929人。番場宿の178軒、808人、武佐宿、醒ヶ井の順であった。
旧中山道筋には、江戸時代以来の旅篭の建物や古い商店が幾つか残っており、宿駅の名残をよく留めている。市場川の橋を渡り坂を西に下ると、伊吹もぐさを今も製造販売している「伊吹堂亀屋佐京店」がある。
伊吹もぐさはこの宿駅の名物で、「木曽路名所図会」にも「此駅は伊吹の麓にして名産伊吹艾の店多し」と記されている。盛んな時期には十数軒のもぐさを商う店があった。もぐさは旅の必需品であり、また旅のみやげものとして重宝がられていた。でも今はこの店一軒のみである。
切り妻造り、白と黒のコントラストの漆喰の塗り込めの中二階建、平入り、桟瓦葺、格子がついていて、古めかしい大きな看板が軒の上に揚がっていた。形の整った見越しの松も手入れが行き届いていた。店内には大きな福助の像が置かれており、亀屋佐京店のトレードマークになっている。江戸時代に歌川広重が描いた「木曽街道六十九次」柏原宿かめやの店頭風景と同じである。
この亀屋の松浦七兵衛が寛政の頃(18世紀末)江戸へ下り、吉原の遊女に「江州柏原伊吹山の麓の亀屋佐京の切りもぐさ」という唄を教えこみ、毎夜宴席でうたわせ、伊吹もぐさの宣伝につとめた話は有名である。   
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参考文献   
  柏原宿ぶらり歩きのもと  社会福祉法人柏葉会  柏原保育園製作グループ 
  滋賀県の歴史散歩下  山川出版社  滋賀県高等学校歴史散歩研究会  1995
  中山道歴史散歩  有峰書店新社  斎藤利夫  1997年
  柏原宿ガイドブック  柏原宿歴史館  平成10年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年


町並み

町並み(元柏原銀行)

伊吹堂亀屋佐京店

町並み

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柏原宿歴史館
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