上賀茂神社は京都市街の最北部、賀茂川にかかる御園橋の北東部にある。 下賀茂神社(下社)に祀る玉依姫命の子 別雷神を祭神とする。。上・下社を「賀茂社」と総称することもあり、賀茂氏の祖神を祀ったと考えられている。創祀は不明であるが、社伝では天武天皇6年(678)に社殿を造営したと伝える。 平安遷都に際しては上・下社に従二位を贈っている。次いで大同2年(807)に松尾大社、伏見稲荷大社と共に朝廷に優遇され、勅祭社として伊勢神宮に次ぐ地位が与えられ正一位となった。天皇が勅使を派遣して祭祀奉幣を行わせる神社を勅祭社と言い、正一位は神社に与えられる最上位の神位である。正式には賀茂別雷神社という。 中世には衰微したが、近世に入り豊臣秀吉が社領2572石を安堵し、徳川幕府に引き継がれ、他に神官領2873石が与えられた。社格は延喜式内名神大社で、近代は官幣大社の首位に置かれた。国宝2棟、重要文化財34棟の社殿を数え世界文化遺産に登録されている。上賀茂神社の祭礼は下賀茂神社と合同で行う葵祭りがある。京都三大祭りに数えられ多くの人出で賑わう。 上賀茂に社家集落が形成されたのは室町時代と言われる。上賀茂神社では、古くは賀茂氏人の中から社務職を選んでいたが、鎌倉時代以降は、後鳥羽天皇の長子と言われる氏久の系統につながる家々がこれを独占することになる。松下・森・鳥居大路・林・梅辻・富野・岡本の賀茂七家が、明治時代までは神主、禰宜(ねぎ)、祝(はふり)・権禰宜・権祝など九職を務めることになっていた。そしてそれらに携わる人々が社家町を形成して集住した。 上賀茂神社の境内を流れる清流「ならの小河」は百人一首の藤原家隆の歌にある「風そよぐならの小河の夕暮れは ……」で「ならの小河」は上賀茂神社境内では楢の小川、境内をでると明神川と名を変える。神官たちはこの川の水で、神道の「みそぎ」行っていた。それは屋敷に引き込んだ明神川の水をかぶって身を清めたのだ。 ここに並んだ屋敷にはそれぞれ庭園があって、水が流れ池があったりする。つまり明神川の分流の水で「みそぎ」を行ったのである。 道路の北側の屋敷もまた社家なのだが、明神川に沿ってないだけに、川の水が利用できないので、庭園は枯れ山水として造られていた。 現在 明神川沿いに見られる風格ある石橋・土塀や門、切り妻造りの棟の低い主屋、土塀の奥に見える緑豊かな樹木等、これらは全て社家と社家町を象徴する貴重な歴史的遺産である。 明神川沿いに並ぶ社家屋敷の中程に西村家別邸がある。錦部家の旧邸(現在は西村家別邸)は現存する社家の中では最も昔の面影をとどめる庭園が残っている。この庭は養和元年(1181)上賀茂神社の神主(現在の宮司)藤本重保が作庭したものと推察される。公開されているのはこの一邸のみである。 上賀茂神社に仕えていた社家の家屋もあった。安永年間(1776〜81)に描かれたと伝える「賀茂社家宅七町大旨之図(写し)」には現在位置に描かれていることから、この屋敷はそのころより変わっていない。主屋には鳥居型の内玄関と式台を並べ、また、妻面を柱と貫で飾るなど社家住宅としての外観を整えている。建築年代は江戸後期のものと推定される。 また、「賀茂七家」に数えられていた社家も健在で、現主屋の建築年代は不明であるが、天保9年(1838)頃にはほぼ現在の形になっていたと思われる。「賀茂七家」のなかでは現存唯一の遺構であり、昭和61年市文化財に指定された。 京都府の歴史散歩中 山川出版社 山本四郎 1995年 歴史の町並み事典 東京堂出版 吉田桂二 1995年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 平成57年 |
上賀茂社家町の町並み |
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