亀岡市の町並み   
本町・紺屋町・塩屋町・東竪町・西竪町・柳町・京町・呉服町
地図


本町の町並

 亀岡は山陰道が通る交通の要衝で、大永7年(1527)までは、丹波守護の細川氏が支配していたが、戦国時代の末期には八上城に本拠を置く波多野氏が桂川の合戦で細川氏を破ってこの地を支配していた。しかし天正年間(1573〜92)に明智光秀が織田信長の命で、丹波平定の兵を進めてきた。
明智光秀は丹波を平定すると同時に天正6年(1578)から平山城の亀山城(亀宝城)を築き、あわせて城下町を建設した。
上級武士は城内に、中級武士は外堀附近に、下級武士は城下に居住させた(与力町・同心町・御旗町)、近隣から商工業者を集めて城下町を形成した。城郭が完全に整備されたのは、慶長年間の終わり頃(1610〜1615)岡部長盛のときとされている。
山崎の合戦で明智光秀が敗死すると城は羽柴秀吉預かりとなり、丹羽秀勝・小早川秀秋・前田玄以らが次々城主に任命された。江戸時代になると岡部長盛・松平成重・菅沼氏2代・松平(藤井)氏2代・久世重之・井上正岑・青山氏3代と続き、寛延2年(1749)から幕末までは松平(形原)氏が8代続き、最後の藩主は松平信正であった。
明治2年の版籍奉還で、旧藩主松平信正が知藩事に任命され、伊勢の亀山との混乱を避けるため亀岡と改称した。城跡の本丸・二の丸・西の丸跡は現在、大本教の亀岡本部「天恩郷」となっていて、内堀の北側は南郷公園となっている。
城下町は附近の村々からの移住者で構成され、城下町の町人の居住区は現在も殆どそのまま原形を保っていて、城の西側から南側にかけて形成されている。北町・西町・紺屋町・本町・柳町・塩屋町・旅篭町・呉服町・京町・横町・突抜町などは旧城下町の町割も名称までもそのままである。
旧城下町を歩くと、紺屋町は昔ながらの町並みを留めた関酒造(切り妻造り・中2階建て塗り込め虫籠窓・桟瓦葺き・煙だし)「井づ源」「この花粧」や和菓子の「塩武」(入り母屋造り平入り・中二階建て虫籠窓・煙出しつき・桟瓦葺き)隣の相原家などが堂々たる伝統的で重厚な商家の建物である。
本町では村上家(中二階建て妻入り・切妻造り・庇付き・塗り込め)をはじめとして、井尻家(妻入り・切り妻造り庇付き・塗り込め)・小安家(妻入りきり妻造り庇付き塗り込め)・松永家なでの商家の建物が目を引く。横町では浅井晩翠堂(茶舗・平入り・入り母屋中二階建て塗り込め虫籠窓・桟瓦葺き)、長谷川酒造(中二階建て妻入り・切り妻造り庇付き・白漆喰塗り込め・桟瓦葺き)が重厚な構えの商家の建物であった。
旅篭町では茶舗の山内家・米屋の成田米穀・西垣家など。西竪町・東竪町には大きな商家は目に付かなかったが東竪町の湯浅家が伝統的な家屋であった。
城下町の伝統的な町並みは、間口が狭く奥行きの深い屋敷割で、妻入り塗り込めの中二階建てで虫籠窓・桟瓦葺きの家屋のようであった。        
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参考文献
  京都府の歴史散歩 上・下  山川出版社  山本四郎  1995年
  町並み紀行京都府 http://www.aasa.ac.jp/people/onomi/3610.html
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年 


紺屋町の造り酒造

横町の町並み

横町の町並み

紺屋町の町並み

横町の造り酒屋

東竪町から西竪町を見る
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