下河原町辺りは「祇園廻り」と呼ばれていた地域で、祇園社の正面、南楼門の門前に展開する街区で下河原・八坂と称される一帯である。 江戸時代祇園廻りは祇園村同様に、遊興地として発展した。寛永14年(1637)洛中洛外惣町数人家数改日記によると、下河原町通りに面する場所の耕地を町地化することで、祇園廻りの市街化がはじまったことが伺える。 江戸初期には八坂を中心に茶屋が認可されており、「京都覚書」によると元禄6年(1693)に、下河原通り沿いの町で52軒もの茶屋数が記載されている。そして天明期(1781〜89)には祇園廻りのほぼ全域が町場化した。 「京都府下遊郭由緒」によると、江戸時代祇園廻りの遊里は下河原町・鷲屋町・上弁天町・月見町の4町からなり、遊女屋稼業が営まれていた。 元々下河原界隈は臨済宗高台寺が中心であり、高台寺は豊臣秀吉の夫人北政所(ねね)(仏門に入って高台院湖月尼)の創建で、徳川家康も高台院の歓心をひくために財力を惜しまずに援助し、壮麗な堂宇を完成したもの。又、北政所(ねね)を慰めるために舞芸に達者な女達が多く集められ、この地に住まわせたのが、後に下河原遊郭になったと云われている。 正徳4年(1714)洛外町続家数改帳では高台寺門前下河原町として家数28があがっている。 明治末期より大正初めにかけて、東山通りの開通などで、祇園廻りの西部は大きく変ったが、下河原通り界隈は格子戸の旅館・料亭・御茶屋などが点在し、明治初年に廃絶した下河原遊郭の名残を留め、独特の雰囲気を今に伝えている。 その中でも下河原通りと高台寺通りを結ぶ、石塀小路と呼ばれる細い路地は、明治末期から大正初期にかけて開発された場所で、高級感を出すために石垣を高くし、石畳を敷き詰めた、貸席を兼ねた高級貸家街として造りだされた町並である。一時期「お妾さん」の家が多かったことから「お妾さん通り」なんて呼ばれたこともあった。 小路は右に左と折れ曲がり、袋小路かなと思うと、角から人が出てきたりして、下河原通りと高台寺通りを結んでいて、風情ある石畳と石塀が続く小路は、京情緒を楽しむには最適な場所となっている。 京都府の歴史散歩上 山川出版社 山本四郎 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 |
下河原町石塀小路の町並 |
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