伊根の町並み
日出・高梨・平田・大浦・立石・耳鼻・亀山
地図


伊根耳鼻の舟屋風景
 伊根は京都府の最北部丹後半島の東岸の若狭湾に面する町。直径1kmの小さな湾内(お間内)の伊根湾は大変に良い漁場で、江戸時代は伊禰浦とよばれ、鯨、イルカ、鰤、鮪、鰹、鰡、いか等を獲っていて、特にブリ漁とクジラ漁で栄えた。ここのブリは「伊根ブリ」「丹後ブリ」とよばれて、丹後の名産であった。
江戸時代には湾口の東側から、日出村・平田村・亀島村に分かれていて、三つの村とも慶長6年(1601)から宮津藩領、ただし寛文6(1666)〜9年(1669)・延宝8年(1680)〜天和元年(1681)は幕府領であり、日出村だけは享保2年(1717)〜宝暦9年(1759)は幕府領であった。
宮津藩主京極氏の時代(1622〜1666)鰤運上(鰤年貢)が、三村合わせて湾内分1000本、湾外分55本となっており、湾内での漁獲が圧倒的に多かったことが分かる。また、明暦2年(1656)から昭和2年までの270年間に約350頭の鯨がとれた。
日出村は天明5年(1785)家数30軒・174人、文化3年(1806)36軒・209人。平田村では宝暦9年(1759)68軒・309人、寛政8年(1796)84軒・366人、文化3年(1806)87軒・504人。亀島村では宝暦9年(1759)222軒・978人、寛政8年(1796)212軒・988人、文化3年(1806)199軒・1056人であった。
伊根湾は湾口を南に向け、東は岬で日本海の荒波から守られ、湾口中央にある青島が天然の防波堤となっている。そのため波静かな入り江で、海岸まで山が迫り海が急に深くなっていること、潮の干満差が少ないことなどの自然条件が伊根浦に独特の舟屋の集落を作りあげた。海岸5kmにわたって、妻入り、瓦葺、二階建ての舟屋が並ぶ。230余棟の舟屋群の景観は見事で、強烈な印象を与える。
町並みを歩くと、海岸まで迫った山を切り崩して埋め立てた僅かな平地に、道を挟んだ両側に家が建ってるのだが、海側には切り妻造り妻入りの舟屋が、山側には切り妻造り平入りの主屋が並んでいる。両者は互いに向き合って見事なコントラストをなしている。舟屋の面白さだけでなく、この町並みの構成そのものが他に例を見ない貴重な文化財である。主屋の並んだ、なお山側には、お寺や神社、畑、墓などがあった。
舟屋は水ぎわぎりぎりに建てられ、舟を引き揚げやすいように地面が斜めに切り取られていて、海水が1mほど中まで入り込む構造になっいる。昔の舟屋は藁葺で、板や土の壁は造らず、藁や古縄をさげた風通しのいいつくりで、二階も低く床板もはらず、足場板を並べて漁具置き場になっていたが、最近は舟屋は全て瓦葺きに変わってしまった。
舟屋は舟を格納する舟小屋だが、この地でトモブトとよぶ長さ7.5m、幅1.1mの細長い舟が、1・2艘入り、いつでも海に出せるように待機していて、他に漁具の保管場所であり、漁網の干し場であり、漁具の整備、出漁準備の作業場でもある。又、魚の料理場、魚の干物の干し場、農産物・漬物置き場、便所、洗濯機などの納屋的役割も果たし、二階は居室にして若者、老夫婦の部屋にしたり、民宿にしている家もある。
最近は船が大型化して、舟屋に入らないので外に繋いでいることがあり、舟を入れていたところを平らにして、全く納屋として使用している家も多く見られる。
昭和6〜7年に一番奥の亀山地区まで道路が拡張されたが、それまでは人がやっとすれ違いできる程度の道でしかなかったので、舟屋が家の玄関であった。
町並み指数 60
参考文献    
  歴史の町並み事典  東京堂出版  吉田桂二  1995年
  京都府の歴史散歩下  山川出版社  山本四郎  1995年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  舟屋 むかし いま  あまのはしだて出版  和久田幹夫  1993年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年

舟屋の画像


平田地区の町並み 

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舟屋風景
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