今津町の町並
今津・浜分・南新保
地図
今津北浜の町並
今津は若狭小浜から九里半街道を陸送した北国・東国の荷物を大津まで湖上輸送する港町・宿場町であった。 中世末期には支配者の新旧交替が著しく進み。守護佐々木氏のこの地の支配も京極・六角両氏に分裂して衰え、代わって湖北の浅井氏が支配した。そして織田信長により浅井氏も滅亡すると、天正元年(1573)から織田信長の配下磯野員昌・織田信澄・丹羽長秀の領有と続き賤ヶ岳合戦の後は羽柴秀吉が領有した。 江戸時代は加賀藩領で始終し、中浜に代官所が置かれていた。17世紀以降領主の保護を受けて、若狭荷物の大津への積み出し港、竹生島参詣、湖東への乗り継ぎ港として発展した。 慶長6年(1601)タライ船14隻、延宝5年(1677)丸子船74隻、享保年間(1716〜36)には82隻も所有し、大津・塩津などと並ぶ琵琶湖沿岸有数の港町となった。家数は元禄2年(1689)400軒余り、安永3年(1774)500軒余り、文久元年(1861)362軒と減少している。 西廻り航路の発展によって、敦賀・小浜を経由することなく、物資が大坂・京都へ運ばれたからだろう。 若狭小浜〜今津間の九里半街道で今津に達する量は延宝・貞享期(1673〜88)で年20万駄あったのが、その後徐々に減少し幕末期には年1万七千駄〜八千駄にまで減少したことからも判る。 さて町並の探索は今回時間の関係で湖岸の浜通りしか歩けなかったので、全体に付いては後日に譲るとして、 南新保、浜分、今津の北浜・中浜・南浜を訪ねた。南新保と浜分は家屋の建て方も農村地帯と言う感じであるが、同じ道筋でも今津に入り北浜や中浜に来ると、湖上遊覧船の発着する今津港や今津漁港があり、小さな商店街といった感じであり、町並も切り妻造りの2階立て、平入りの町並が続く。建築時期もまちまちだが、明治末期から大正・昭和の初めの建物が古い建物の様だが、一般的な古い町並に云われている、通りニワのある伝統的な商家の建物に無かったようだ。 滋賀県の歴史散歩下 山川出版社 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 1995 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |