殿田は京都府中部、田原川と木住川が合流し大堰川となる場所で、若狭街道は田原川沿いに南下して殿田に入るなど、この地方(世木庄)の中核集落であった。 江戸時代には大堰川・田原川筏運の中心地の一つで、大堰川下流の保津・山本(現亀岡市)と共に筏問屋が多く存在していたようだ。 殿田村は元和5年(1619)から園部藩領でそのまま明治を迎えた。 殿田の筏は、既に天正16年(1547)に豊臣秀吉が筏の朱印状を発給している。慶長11年(1606)、角倉了以による大堰川開発以来、川筋集落は発展し、 慶長初年には30戸にも満たなかったが、宝永4年(1707)には77戸、寛政元年(1789)には94戸・402人にもなり、商家が建ち並んで繁栄を極めた。兵右衛門、甚五郎、五郎兵衛、与兵衛のどの廻船業者の名があり、その持ち船も10余艘あり、鉄道開通まではその実権を握っていた。 上流部から伐り出す木材は、殿田に集められ、ここからは流れが緩やかになるのと、水嵩が増すので大筏に組み替えられ、下流の船岡・鳥羽・保津・山本などの中継地を経て、木材は嵯峨に送られた。 寛政11年(1799)丹波国大絵図にも殿田について「山城嵯峨より殿田まで通船あり」と注されている。殿田村は若狭街道沿いに町化していったようである。 今町並を歩くと、筏問屋などの名残は全く感じないが、旧若狭街道沿いに切り妻造り・中2階建て・平入りの民家が連なる。殆どの家は仕舞屋になっているが、呉服屋・鍛冶屋・和菓子屋などが残り、当時の宿場町、在郷町の面影を残していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 京都府の地名 平凡社 下中邦彦 1987年 |
日吉町殿田の町並 |
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