日野町の町並み 
南大窪・清水町・新町・岡本町・越川町
地図


日野の南よりの入口「這い上がり」辺りの町並み
  日野町は琵琶湖東部の八日市市の南に位置している。日野も近江八幡同様、城下町から近江(日野)商人の町となり繁栄した町であるとともに、戦国武将蒲生家のふるさとでもある。
蒲生家が日野を領しはじめた鎌倉時代の初期から、豊臣秀吉の天下となった16世紀の天正12年(1584)まで、およそ500年の間、南北朝や戦国の動乱期にも武将の興亡にかかわることも無く、湖東128郷の支配者として君臨した。
天文2年(1533)蒲生定秀が西大路に日野城(中野城)を築き、天文年間初頭(1523〜1554)に町割りをし、賢秀を経て蒲生氏郷(うじさと)に至り、日野の町づくりは完成された。氏郷は城下の繁栄を図るため、天正10年(1582)に楽市楽座の制をしき、商工業の振興に力を入れた。鉄砲鍛冶職人を多量に育成して、湖北の国友鉄砲に匹敵する日野鉄砲を生産させ、商業保護政策を積極的に取り入れ、日野の町はたいへん潤い活気に包まれた。
しかし、信長、秀吉にしたがって多くの戦功をあげた氏郷は、天正12年(1584)に日野6万石から松阪12万石、さらに同18年(1590)会津若松42万石へ転封となり、この地を去ります。
氏郷の人柄を慕い松坂や会津若松まで従う人や行き来する人も多く、ここに日野と松阪、会津若松ひいては関東、奥州を結ぶ道ができましたが、日野城下は寂れてしまいました。また、氏郷の病死などによって蒲生氏は次第に衰退し、ついに、お家断絶となります。
日野から松阪、会津若松と移住していった多くの日野出身者は、日野に戻ることになったが、日野の町もすっかり様相をかえ、さびれた日野では職も無く人々は天秤棒を担ぎ、特産品であった日野椀などの日野の特産品を氏郷によって開けた奥州への道へ、生活の糧を求めて行商人となって売り歩いた。これが日野商人の活躍の始まりである。
日野商人の行商の品は最初は漆器の日野椀であった。丈夫で頑丈な塗り物だが、軽くて運びやすいのが、天秤商法に適していた。次いでの商品は日野売薬で、その他は京呉服・近江麻布などあった。
南大窪町、岡本町の長い板塀と白壁の土蔵の豪邸が並ぶ町並みは、日野商人たちの館で、みごとな町並みを残している。仕出町の近江日野商人館(歴史民俗資料館)は、宝永元年(1704)以来の旧家、山中兵右衛門邸を公開しているものである。それより東の街道沿いに正野家がある。正野法眼玄三は合薬の創始者である。日野商人の長旅用の道中薬として、感応丸を作り、日野商人が各地に持ち歩き、効き目が評判となり飛ぶように売れ大きな利益をもたらした。
万病感応丸は日野を代表する薬となって全国に拡められ、これらの薬を製造する製薬業者も200軒を超え日野は製薬の町ともなった。
日野商人の特色は商人の数が多いこと、出店地が関東に集中すること、出店地が大都市でなく地方都市に多いこと、小型で店舗数が多いことがあげられる。江戸中期以後は行商から店舗経営に移行し、商売の成功により得た蓄財は日野の出身地に持ち帰られ、豪荘な邸宅を建てて本宅とした。また地域発展のために多額の費用を惜しげも無く差出した。
松尾三区、松尾二区に桟敷(サジキ)窓をつけた板塀を巡らせた民家が並ぶ、切妻造り、平入りの平屋建てが多いが、ベンガラ塗りの千本格子が渋い味を出している。桟敷窓というのは、板塀の一部を切り取って造った窓のことで、ふだんは格子や板でふさいでいるが、5月3日の綿向神社の例祭、日野祭りには開け放って、内の桟敷から窓越しに祭りの行列を見物できるようにしたものである。
町並み指数 60
参考文献  
   滋賀県の歴史散歩上  山川出版社  滋賀県高等学校歴史散歩研究会  1995
   歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
   近江商人のふるさとを歩く  サンライズ出版  AKINDO会議広報局  2000
   書名不明  蒲生家と日野町  瀬川欣一
   古道紀行近江路  保育社  小山 和  平成3年
   近江路散歩  司馬遼太郎  新潮社  1988年 


南大窪町の町並み

清水町の町並み

越川町の町並み

清水町の町並み

越川町の正野家(正野感応丸)

綿向神社の参道入口
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