彦根市街の北東に鳥居本がある。鳥居本宿は中山道の宿場で、次いで高宮宿がある。 鳥居本が宿場となるのは、江戸時代初期当初からのことでなく、その初期には隣村の小野が東山道以来の宿場機能を果たしていた。鳥居本が宿場になるのは、江戸時代に入っておよそ30年を経た寛永年間(1624〜1643)のことである。 鳥居本は徐々に宿場としての整備が進み、問屋が置かれ本陣・脇本陣・旅篭などが設けられた。本陣は一軒で街道の東側にあり、脇本陣は2軒であったが、共に遺構は何も残っておらない。 鳥居本宿は天保14年(1843)には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋35軒、町並の長さ10町、家数293軒、人数1448人で中程度の宿駅であった。ここの名物は雨合羽と腹薬の赤玉神教丸の二つである。今でも「木綿屋本家合羽所 嘉右衛門」と雨合羽の形をした木製の看板をだしている家がある。雨合羽は享保5年(1720)馬場弥五郎創始の油紙製の道中合羽で、雨天の多いこの地方を通過する者に需要が多く、この辺りに20軒ほどの雨合羽屋があった。 中山道が枡形になっているところに、腹薬の赤玉神教丸の有川家がある。重厚な商家と言うより城郭のような建物で、主屋は入り母屋造り、中二階、真壁の虫籠窓、桟瓦葺で外側から見るだけでも七棟造りになっていた。主屋の右側に立派な御成門があり、明治天皇鳥居本御小休所の石標が立っていた。 この辺りの伝統的な家屋はやはり商家で、切り妻造りの中二階建て、漆喰塗り込めの虫籠窓、平入り、格子、出格子、煙り出し、袖壁、桟瓦葺、駒寄せなどである。 高宮宿は中山道の宿場町というよりは多賀大社への門前町で、また高宮布の集散地として、小規模ながら独自の経済圏をもった、彦根の衛星都市の一つであった。 宿の中ほどの大きな石の鳥居は「多賀大社の一の鳥居」(県文化財)で寛永12年(1635)の建立。 高宮布は付近の農村から生産される麻布で、近江上布とも称された。高宮はその集散地で、問屋や小売店が軒を並べていた。高宮宿は、天保14年(1843)本陣一軒、脇本陣2軒、旅篭屋23軒、そして問屋場一ヶ所で、町並の長さ7町16間で鳥居本同様に並みの宿駅であつた。宿駅としては並みでも、宿の石高は2千9百石余りは、美濃の鵜沼宿に次いで高く、家数835軒・人数も3,560人と武蔵の本荘宿に次ぐ第2の大きな宿場であった。 多賀大社の一の鳥居前には伝統的な家屋の家並みがづらりと連なる。この連続した伝統的な商家は切り妻造り、中二階の塗り込め虫籠窓、平入り、桟瓦葺、袖壁付きであった。旧中山道を挟んだ向かいにはやはり伝統的な様式の商家が連なるが、オダレが付いた商家もあった。 一の鳥居より南、街道の西側に芭蕉の紙子塚のある商家がある。この商家は切り妻造り、中二階の黒壁塗り込めの虫籠窓、平入り、桟瓦葺、袖壁、格子、出格子とこの辺りの伝統的な商家の標準である。その南に脇本陣跡があり、問屋も兼ねていたという。 本陣はそれより少し南の街道の東側にあったというが、今はこじんまりとした門を残すのみとなっている。享和4年(1804)に描かれた絵図が残っていて、それによると間口は約28m、奥行き50m、総坪数1500u弱の内約400が建坪であった。もう一軒の脇本陣は、本陣より少し南で街道の東側にあったが、遺構は残っておらない。 滋賀県の歴史散歩下 山川出版社 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 1995 近江中山道 サンライズ出版 淡海文化を育てる会 1998年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1995年 古道紀行近江路 保育社 小山和 平成3年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 |
鳥居本の神教丸の有川家 |
鳥居本宿の町並み |
鳥居本宿の町並み |
高宮宿の町並み |
高宮宿の町並み |
高宮宿の町並み |