彦根市の町並み 
本町一丁目〜三丁目・城町一丁目〜二丁目・立花町
(上魚屋町・職人町・紺屋町鍛冶屋町・彦根町・大工町・佐和町・伝馬町・油屋町)
地図


本町二丁目(上魚町)の町並み
彦根市は琵琶湖の東側に位置し、彦根城を持つ大きな町だ。初代藩主井伊直政は慶長5年(1600)関ヶ原の合戦での大功にて、石田三成の居城佐和山城(彦根市)の城主となるが、一年後に42歳で一生を終える。
慶長8年(1603)に直政の子 直継は徳川家康の命により佐和山城の豊臣カラーを一掃するため新城を築く。築城は徳川家康の命で慶長9年(1604)幕府普請として七カ国12大名を動員して大掛りに進められた。佐和山城、長浜城、大津城の建造物や石垣までも運び込んだ。
大坂冬の陣、夏の陣の後、普請を再開し城郭改造や城下町の整備をして彦根城下町は元和8年(1622)にようやく完成した。
この間二代藩主井伊直孝は大坂夏の陣などで武功をたて数度の加増を経て35万石の大大名となり、以降彦根藩主井伊家は明治維新まで約260年余の長い歴史を受け継ぎ、幕末、ついに大老井伊直弼は鎖国日本を開国へと導き、歴史は大きく変わる。
井伊氏は譜代筆頭大名であり、一度の国替えもなく、彦根はその城下町として栄た。大藩であり譜代と云うところから、他領に比べ財政的に豊で、領内では百姓一揆などは殆ど起こっていない。また第2次世界大戦で戦災を受けなかったため、今なお城下町の面影をよくとどめている。
明治時代になって新政府の廃城令によって全国の殆どの城が壊されたが、明治11年の城郭撤去の寸前、参議大隅重信が視察し名城の消失を惜しみ、明治天皇にその旨奏上し、明治天皇の取り計らいにより、取り壊されるのが免れたのである。
彦根の城下町は彦根城築城と並行して進められた。家老や高禄家臣の屋敷が内堀の周りに、中堀に面して中級家臣の屋敷があり、その外側に町人居住区が設定され、その外側に武家が囲み外堀がめぐらされていた。
そこから芹川までの間には町人が住み、芹川堤下には足軽屋敷を置いて二重三重に城下町を包囲していた。
古い町名をたどれば、紺屋町、桶屋町、魚屋町、鍛冶屋町、油屋町、瓦焼町など職種別に住まわせた町名が残る。また城下町ならではの町名として伝馬町、伊賀町、鷹匠町、餌差町、牢屋町、江戸町、小道具町など身分、職業によって町割りが行われた。
元禄8年(1695)の記録(大洞弁財天祠堂金寄進帳)によると、56ヶ町の町屋総数は2,954軒で職業は大工126軒・米屋110軒をはじめとして煙草屋95軒・古金屋80軒・魚屋76軒・油屋59軒・塩屋56軒・鍛冶屋54軒・紺屋46軒・桶屋46軒・小間物屋43軒・菓子屋36軒・酒屋34軒・紙屋33軒・豆腐屋29軒・木綿屋27軒など80種余りに職業が分かれ、これら商工業者の間には株仲間が組織されていた。
城町一丁目から城町二丁目にかけては往時の町並みが偲ばれる町である。百数十年前に建てられた二階部分が低い白漆喰壁または黒壁、虫籠窓、紅殻格子窓の家、平入り、切り妻造り、煙だし、桟瓦葺の家が連なる。旧魚屋町あたりには通りに面して井戸のある古い商家が点在する。
城町一丁目(旧下魚屋町)に旧広田家がある。このあたり400メートルの間に魚屋が40軒もあった。この旧広田家は彦根の代表的な魚問屋で安永7年(1778)の建築。軒の出桁、軒裏など漆喰で塗り込めてあり重厚な構えを残している町屋である。切り妻造り、平瓦葺、平入りであった。その東の本町三丁目から本町一丁目、中央町の旧大工町にかけても虫籠窓、格子窓、平入りの古い商家が点在する。
彦根では長浜市の黒壁ガラス館同様、夢京橋キャッスルロードといって、白壁に黒の格子、軒ひさし、グレーの和瓦葺きの伝統的建築風の外観で統一した現代版の最新城下町が出現していて、小江戸情香漂う家並みの再現をうたい文句に、彦根の新名所に育てるべく努力されていた。  
町並み指数 50
参考文献  
  滋賀県の歴史散歩下  山川出版社  滋賀県高等学校歴史散歩研究会  1995
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年 

本町二丁目(上魚町)の町並み

本町二丁目(上魚町)の民家

城町二丁目の町並み 

城町一丁目の町並み

城町一丁目の町並み

城町一丁目の民家

本町三丁目(職人町)の町並

城町一丁目の町並

城町一丁目の町並

立花町の町並
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