彦根の町は天下分け目の関ヶ原の戦いで勝利した、徳川方の井伊家(直政・直継)によって江戸時代初期に造られた城下町である。 町は天守を中心に内濠に囲まれた城郭、その外側の中濠に囲まれた内曲輪、外濠と土塁・竹薮に囲まれた武家屋敷と町家からなる内町、内町の外側で町家と足軽屋敷からなる外町と4つのブロックに分けられる。 外町の周りには七ヶ所の番所が設置され、城下から外部と繋がっていた。 この芹町・河原町辺りは江戸期には芹新町・芹川町・安清町と呼ばれ、城下の南東部に位置し、城下から中山道高宮宿に向かう猿尾口の番所が置かれていた所である。 江戸期の彦根の総人口の推移を知る資料はないが、元禄8年(1695)大洞弁財寄進帳・嘉永3年(1850)の四手町組留書・河原町手組の資料などから人口の変遷を推察すると、元禄期から見て減少する傾向があり、沼波町では326人から197人と大幅な減少を示しているが、袋町(現河原町1〜2丁目)など城下南東部の周辺地区では人口が増加している。 元禄8年(1695)大洞弁天寄進帳では町方53町を全四冊に分け書き上げているが、うち一冊が見つからないため全体像は把握できないが、3冊分の町家総数は2,954軒で、職種は100種を越えていて、多い順には大工・米屋・煙草屋・古金屋・魚屋などがある。幕末の河原町では職種が1.6倍に増え職種の分化が進んでいたようだ。 今、河原町・芹町の古い町並は「はなしょうぶ通り」と名付けられた古くからの猿尾口から高宮宿に通じた道に沿って展開する。明治になって遊郭として認められた袋町は河原町一丁目〜二丁目の「はなしょうぶ通り」の西側、芹川との間に展開し、古い形式の町家と今風の飲み屋街の入り混じった細い路地ばかりの町である。 河原町一丁目〜三丁目・芹町の「はなしょうぶ通り」では、古い伝統的な様式の民家が連なる。切り妻造りの平入り、中2階建てで虫籠窓だったところがガラス窓などになってはいるが、江戸時代を思わせる建物が並ぶ。袖壁を備えたり、格子戸や煙り出しを残したりした家もあり、見ごたえのある古い町並が展開していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 滋賀県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 |
河原町二丁目の町並 |
河原町二丁目の町並 |
河原町一丁目・三丁目の町並 |
河原町一丁目の町並 |
芹町の町並 |
芹町の町並 |