八幡市橋本の町並み
橋本小金川・橋本中の町
地図


橋本小金井の町並み
 橋本は石清水八幡宮のある男山(標高142m)の西麓に位置し、大阪街道(京街道)・西国街道沿いにあたる。
僧行基が淀川対岸山崎との間に架した橋のもとに出来た集落といわれ、名前の由来になっている。橋の流出後も渡船場として賑わった。文禄年間(1592〜96)にも現在の観音寺前から架橋されたと言われている。
木津川・宇治川・桂川の三河が合流して淀川となる狭窄部にあたり、古来より京都から大坂への要路にあって、平安中期にはすでに相当の賑わいを見せていた。
江戸時代には橋本の駅と称し、京街道(東海道)に沿った宿場として発展した。幕末には陣屋が設置されており、それは松平出羽守が自費で建造したと伝えられている。陣屋の設置目的は不明であるが、京都・大坂を結ぶ要衝の地であったためだろう。
又、淀川を上り下りする舟は多くを数え、享保年間(1716〜36)の記録によれば、淀川過書船740艘、伏見船200余艘とあり、くらわんか船・すばい女船など入り乱れて、おびただしい貨客が毎日橋本や枚方付近を上下していた。
当地には江戸期以来、昭和33年の売春防止法施行までは遊郭があり、大変賑わっていた。
橋本の渡しは古来よりはじまり、対岸の山崎を通る西国街道から石清水八幡宮への道、又は河内への近道として重要視されていて、石清水八幡宮の川湊としても機能していた。
渡船の運営には村役である「渡し船緒米」が当てられ、諸米は橋本町、及び対岸の山崎離宮八幡宮領内の寺方・町方や近隣の村々に課せられていた。
この渡しは昭和30年代初めまで続いていたが、今は渡船が無くなったままで、架橋もされてなく、上流側か下流側に廻らねばならない。当時の道標が淀川の堤防下、中の町の大谷川に架かる橋詰に立っている。「山さき あたご わたし場」の文字が刻まれている。
町並みは昭和33年に廃止された遊郭だった頃の建物が連なり、町並みとしては見応えがある。通常の古い町並みの、伝統的な商家の建物という概念とは異なるが、昭和初期に建った2階建てで、2階に手摺を備え、1階には装飾を施した格子などで意匠を整えた町家が並ぶ。
廃業直後は料理屋等に転業されていたが、今では殆どの家は住宅となり、三味線の音色も聞かれない静かな町並みを形成していた。
町並み指数 50
参考文献      
  京都府の地名  平凡社  下中邦彦  1981年
  京都府の歴史散歩中  山川出版社  山本四郎  1995年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年

橋本小金井の町並み

橋本中の町の町並み 

橋本中の町の町並み

橋本中の町の町並み

橋本中の町の町並み

橋本中の町の町並み
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