五個荘町金堂の町並み  
金堂・川並・宮荘


金堂の弘誓寺前の町並
地図

  琵琶湖の東側に五個荘町がある。近江商人の故郷として、近江八幡市、日野町とともに全国に名を知られている。
金堂村は江戸時代の最初は幕府領であったが、寛文元年(1661)から上野館林領、貞享2年(1685)からは大和郡山藩領となり明治維新を向かえた。享保9年(1724)の戸数160軒・人数723人であって、元禄6年から大和郡山藩の代官所が置かれ金堂陣屋と呼ばれた。
明治13年の戸数196軒・人数859人で職業は農業118・商業67・工業11・商家は呉服・荒物・酒造業などで、他所に店舗を構えた家が13軒あった。
五箇荘などの近江商人は、農業の傍ら野洲晒・高宮布・編笠・木綿・繰綿・絹糸・生糸・麻などをもって、京阪神は勿論のこと、遠く東北地方から九州にまで、天秤棒だけで全国に商売をした。彼らは産物を商うだけでなく、その土地の産物を他の地域で商う「諸国産物廻し」の商法で、その上他国での経済的貢献という近江商人独特のものとして歓迎されいた。
五個荘の近江商人は日野や近江八幡商人より江戸・京都への出店が遅かったが、享保年間(1716〜36)に松居久左衛門が京都に店を出したのが一番早かった。そして18世紀後半から19世紀半ばにかけて、宇都宮に松居彦五郎、静岡に田付新兵衛、江戸と京都に塚本平吉、大坂に外村宇兵衛、京都に山中利右衛門、京都に小泉重助、その他保田与惣兵衛、山中利一郎、松居庄右衛門らが各地に店を構えた。
城下町の整備が進んだ近江では、町場と専ら農業を行う農村地域との区分がはっきりとしてきた。
五個荘村は農村地域であり、特に水の被害が多く、貧しい地域であったので藩は他国に出ることに寛容であり、農作業の余業を奨励する恰好となった。
そして近隣に近江布の産地があり、土地の劣悪な環境から五個荘商人が誕生することになった。大成した豪商も農業を行いながら同時に天秤棒の行商を始めている。また、江戸時代初期から近江布の生産体制が整ったことが、五個荘商人発祥の大きな理由ともなった。
今でも巨万の富を蓄えた豪商の家・屋敷が金堂や川並に見られる。舟板塀や白壁の商家や土蔵が並んでいる。そんな中に、近江商人として活躍していた外村與左衛門家がある。公開されている近江商人屋敷の外村宇兵衛家の本家になる家で舟板塀、白壁の土蔵、広大な屋敷に優雅な庭園がある。
近江商人屋敷の旧外村宇兵衛家は、呉服類の販売を中心に業績をあげ、近江を代表する豪商としての地位を築いた。主屋は万延元年(1860)の建築。近江を代表する豪商の生活ぶり、財力の豊かさを垣間見ることができる。
五個荘の近江商人の屋敷はどの家も舟板塀、白壁の土蔵、白壁の塀などを備えているが、門や玄関は小さく目立たなく建てられている。主屋は建て方から見て明治時代のものが多いと思われるが、どの家のつくりも成金趣味がなく瀟酒な建物であった。        
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参考文献
  滋賀県の歴史散歩下  山川出版社  滋賀県高等学校歴史散歩研究会  1995
  角川日本地名大事典  角川書店  角川日本地名大事典編纂委員会
  近江商人のふるさとを歩く  サンライズ出版  AKINDO会議広報局  2000年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年


金堂の近江商人の家

金堂の町並み

金堂の町並み

金堂の弘誓寺と町並み

金堂の町並み

川並の町並み
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