祇園町南側の町並み 
祇園町南側
地図


祇園町南側花見小路から望む路地の町並み

 江戸時代、広く祇園と呼ばれていたのは、祇園廻り・祇園社(現八坂神社)境内・祇園村の三地区より成っていた。そのうち祇園村とされる地域は祇園社西門前、四条通りを中軸とした鴨川以東の一帯であった。
この地域は祇園社の西門前の門前町ちして、中世より市街化の進行がうかがえる。洛中よりの参詣道として四条大路が鴨川を渡って東に延びたことによる。四条大橋の架橋は平安時代の久寿元年(1154)の「百錬抄」に「祗園橋供養」の記載がある。
ただ、中世の市街化の進展はそのまま、江戸時代に受け継がれたわけでなく、戦国時代の景観を写した各種の洛中洛外図屏風などでは、この付近にはさしたる町並みがなかったようだ。
江戸初期にも、同じ鴨川の東でも、東海道に繋がる北の三条通り、伏見街道に至る五条通り周辺が洛外町続きとして開けていて、四条通り周辺の市街化は遅かったようだ。
この四条周辺の市街化は、江戸時代の初期の鴨川改修工事によって両岸に堤防が築かれると、水茶屋などが並んだようで、まず四条通りに面して祇園町北側・同南側が町場となった。その時期は「慶弘紀聞」に寛文6年(1666)のこととしている。
寛文5年(1665)刊「京雀」には「四条河原いろいろ見物の芝居あり。その東は祇園町北南行ながら、茶やはたごやにて座しきには客の絶ゆる時なし」と祇園町の賑わいぶりを記載している。更に寛永14年(1637)洛中洛外惣町数人家数改日記には、洛外町として「北祇園」「祇園村南側」の記載が見られる。
いずれにせよ、寛文期は祇園町の再開発期で、三条通りから町並みが南下し、鴨川に沿って、弁財天町・常盤町・廿一軒町・中之町・川端町・宮川筋一町目の祇園外六町が形づくられた。次いで正徳3年(1713)には祇園町北側の更に北に大規模な造成を行い、一帯を町場とした。そこに新しく七筋の道を通し、元吉町・橋本町・林下町・末吉町・清本町・富永町が開町して祇園内六町が出来、祇園新地の拡大がもたらされた。
といっても、直ぐに人家が建ち並んだわけでなく、正徳4年(1714)の洛外町続町数小名家数改帳には「未家建揃不中、町数小名不相極候」となっていて、人家はまばらであったことが想像できる。
正徳4年(1714)洛外町続町数小名家数改帳では「祇園町北側」とあり、家数59軒、又「祇園町南側」とあり家数60軒とある。
幕府からの規制を受けながらも、公許された島原遊郭よりも、気楽に遊べる祇園が喜ばれ、歓楽街として発展した。明治維新の戦火や祇園の火災などにより、衰退する京都の救済策として、建仁寺の塔頭を整理して町地とし、祇園町南側の町並みが整備された。
現在、祇園町南側は「祇園町南歴史的景観保全修景地区歴史的景観保全修景計画」により古い町並み景観が残るよう、いろんな規制を設けて保存に向かって努力されている。
同じ祇園でも、四条通りを挟んで北側はネオン瞬く歓楽街ですが、南側は弁柄格子に簾・暖簾の町並みで、木造2階建ての美しい町並みが続く。
以前の昼は観光客も来ないひっそりとした静かな歓楽街であったが、どうしたことか今は場外馬券の売り場が開設され、土曜・日曜日の祇園の通りは異様な光景が展開する。
また最近の観光ブームにのって、中学生の団体までもが、一力茶屋の赤壁の前を、賑やかに通過する。
お茶屋の造りは切り妻、瓦葺きの本二階建て、一階は千本出格子に駒寄せ、二階は座敷で表に張り出し縁や格子手摺を付け年中すだれを掛けた町屋が並ぶ。。江戸時代には本二階は禁止されていたが、お茶屋は許されていたそうだ。
町並み指数 60
参考文献      
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年
  京都の地名  平凡社  日本歴史地名大系30  下中邦彦
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祇園町南側花見小路の町並み

祇園町南側花見小路の町並み

祇園町南側花見小路の町並み

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