祇園新橋の町並み 
東山区末吉町・東山区元吉町
地図


祇園新橋の料亭街の町並(元吉町)
  祇園は八坂神社西門前、四条通りを挟んで鴨川以東一帯の広い地域をいうが、その範囲ははっきりしない。
この周辺は祇園感神院(現八坂神社)、清水寺の門前町として形成され、鎌倉時代から参拝人目当てのよしず張りの休み茶屋に、茶立て女や茶汲み女が発生し門前町ができ結構にぎわっていた。
しかし、応仁の乱で京都が焼け野原になってしまったので、参拝人が途絶えて門前町の原形も焼失し、元の農村に舞い戻ったと伝えられる。現在の祇園の前身の門前町が再生するのは江戸時代の初期に鴨川改修工事によって両岸に堤防が築かれると、初めは水茶屋が並ぶ程度であったらしいが、寛文6年(1666)に水茶屋は縄手の一角に集められ新地とよんで茶屋営業が許可され、この縄手付近を外六町とよんだ。
江戸も末期になると祇園会の復興、八坂神社の修築などで栄え,祇園一帯に休み茶屋が軒を並べ、茶から酒食のサービス、歌舞へと発展した。即ち、白川沿いの新橋あたりが開けて、享保17年(1732)に茶屋営業が許可され、この大和大路東側の白川沿いを内六町とよんだ。
それより前、元和年間(1615〜24)に京都所司代板倉勝重によって、四条河原に七つの芝居小屋を作るのが許可され、寛永年間(1624〜44)には四条河原に軒を連ねた芝居小屋が次第に常設化した。今も残っている南座はその内の一つで「南の芝居」と称していたが、明治中期に南座と改名した。芝居とともに茶屋も300軒ほど、旅篭も45軒ほどに増えた。正徳2年(1712)に三条から四条間に茶屋株、旅篭株免許が出て内六町が発展し、二階建ての夜のみ営業する茶屋(蛍茶屋)や料理を出す茶屋(豆腐茶屋)も現れた。
京都の都市的発展とともに公許された島原よりも、気楽に遊べる祇園が喜ばれ、また、幕末新撰組は壬生寺にいたので近くの島原を遊所にし、かたや勤皇方は祇園で遊んだ。
明治以降は島原は没落したが、祇園は繁栄を重ね、明治19年(1886)に祇園甲部、乙部ができた。
今 新橋通りを中心としてほんの僅かの部分だが、昔ながらの町並みが保存されている。 ここのお茶屋の建物の70%は江戸時代、元治2年(1865)の大火直後に建てられたものという。お茶屋の造りは切り妻、瓦葺きの本二階建て、一階は千本出格子に駒寄せ、二階は座敷で表に張り出し縁や格子手摺を付け年中すだれを掛けた町屋が並ぶ。
新橋通りの両側に殆ど同じ造りのお茶屋が並ぶ町並みは美しく、すだれがいっそうの情緒を醸し出す。江戸時代には本二階は禁止されていたが、お茶屋は許されていた。白川南通りの北側は太平洋戦争のときの建物疎開で取り壊されたので、少し趣が異なる。白川沿いの柳並木と町並みはまた一段と風情がある。
町並み指数 60
参考文献      
  京都府の歴史散歩上  山川出版社  山本四郎  1995年
  歴史の町並み事典  東京堂出版  吉田桂二  1995年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  町並み・家並み事典  東京堂出版  吉田桂二  平成9年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年             

新橋通りの町並み(元吉町)

白川に面した町並み

新橋通りの町並み(元吉町)

新橋通りの町並み(元吉町)

白川に面した料理旅館(末吉町)

新橋通りの町並み(元吉町)

白川をへて末吉町を見る

祇園新橋(元吉町)

巽橋北側(末吉町)の町並み

巽橋北側(末吉町)の町並み
古い町並みへ戻る