京都の南にある伏見が脚光を浴びるのは、豊臣秀吉による伏見城の築城である。京都・大坂・西国・奈良・近江などとの交通の要衝であるこの地に新しい首都圏を建設したのである。 豊臣秀吉は文録3年(1594)から伏見山(木幡山)一帯の広大な土地に壮大な城を建てることを計画し、諸国の大名に25万人の人員動員を命じた。しかし慶長元年(1596)の京畿大地震によりこの城は倒壊してしまったが、位置を少しずらして昼夜兼行の工事で、本丸・天守や各殿も完成させた。そして金色燦然と輝く金城を中心に全国の大名屋敷は勿論、近郷からさまざまな商工業者を呼び寄せ、一大城下町も造ったのであった。 それは今の疎水の内側一帯が城下町になった。京町を中心にした28町が伏見の城下町のはじまりである。そして侍屋敷跡には丹波橋・肥後橋・阿波橋・豊後橋など、あるいは伯耆町・備後町・讃岐町などの国名が、下町には紺屋町・材木町・魚屋町・塩屋町・船大工町など職業を冠する町名が残っている。 しかし秀吉が伏見城にあったのはわずかに5年足らずで、慶長3年(1598)には伏見城本丸で63歳の生涯を閉じてしまった。その後、関ヶ原の戦いを経て、慶長6年(1601)徳川家康が伏見城に入り、元和5年(1619)廃城になるまで徳川氏の城下町として発展し、だいたい今日の伏見の町の原形が整った。伏見城の廃城とともに、大名屋敷も取り壊されて、商工業者たちも大坂へ移ったので、伏見は急激に衰退した。 しかし、伏見は幕府領となり、伏見奉行山口駿河守のもとで、新しく河川交通の要衝・港湾都市として再出発することになった。特に角倉了以による高瀬川が京の二条まで開削され宇治川と合流すると、高瀬川と淀川水運の発着地点となり、京都、大坂を繋ぐ中継港的性格をおびることとなった。そのため、伏見の京橋や南浜界隈には米問屋・薪問屋・材木問屋が軒を並べ“伏見三仲間”と呼ばれる経済の中心となった。 もちろん大名の参勤交代も伏見を通った。大坂から三十石船で淀川をさかのぼり、伏見の京町から大津街道へ抜けていった。 江戸期時代が下がるにつれて、京都の外港としての伏見の重要性はますます強まった。江戸中期の町数は263町余りを数えた。 そして、慶応4年の鳥羽・伏見の戦いにより、伏見の町は大部分が焼かれたうえ、幕府の直轄地としての地位を失い、その衰退ぶりは激しかった。 明治10年神戸・京都間に鉄道が開通し、七条停車場(現京都駅)が開設されると、交通の要地としての機能も大きく縮小され,衰退の一途をたどった。しかし衰退に歯止めをかけたのが、明治31年にこの地に設置された歩兵38連隊・第19旅団司令部・京都連隊司令部等の軍隊であった。 軍部の需要に応じるために、商工業者らが各地から集まり、再び城下町のような活況を取り戻すことになった。そんな中で伏見の新しい基盤として登場したのが“伏見の酒”である。 灘に次ぐ酒どころとして知られる伏見の酒は、江戸時代の初期にすでにかなりの生産量をもっていたが、日露戦争の後、飛躍的な発展をとげた。そして酒造業者も大規模なものが多く、また、月桂冠・金鵄正宗・神聖・名誉冠・日の出盛など軍隊好みの銘柄からみても、軍隊への納品が多かったことを物語っている。 伏見の酒蔵の景観はいたるところで見られ、酒蔵が並んでいるのは伏見の街らしい景観である。 東高瀬川の堤防上を歩くと伏見の観光ポスターによく登場する松本酒造の黒板壁の酒蔵がある。「日出盛」のメーカーで酒蔵は大正時代に建てられたもの。富翁の北川本家の酒蔵。神聖の山本本家と山本家。宇治川の運河沿いに月桂冠の酒蔵がしだれ柳越しに見える。これは大倉記念館で、なかなか風情ある景観である。 寛永14年(1637)に笠置屋の名で創業し、350余年の歴史を誇る月桂冠が明治建築の酒蔵を改装して開いた資料館が大倉記念館である。月桂冠は業界ではじめて四季醸造をはじめるなど、最新技術を採用したトップメーカーとして知られている。黄桜記念館は黄桜酒造の本店蔵を改装して開設した記念館である。 京都府の歴史散歩中 山川出版社 山本四郎 1995年 歴史の町並み事典 東京堂出版 吉田桂二 1995年 京・伏見 歴史の旅 山川出版社 山本真嗣 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 |
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