福知山は近世福知山藩の城下町として栄え、三丹(丹波・丹後・但馬)を結ぶ水陸の交通要衝であり、北近畿の政治・経済・文化の中心であって、現在も引き継がれている。 天正7年(1579)織田信長配下の明智光秀により、横山氏がいた横山城は落城し横山氏は滅亡した。明智光秀は横山城を改築して福知山城と命名した。しかし、明智光秀の支配は僅か3年で、実際に城郭と城下町を完成させたのは、慶長5年(1600)に入封した有馬豊氏の時代である。 城主小野木縫殿助重勝は関ヶ原の戦いで西軍に属したので敗れ、有馬豊氏が入部して、約20年間支配し、この間に城郭と城下町はほぼ整えられたとみられる。 城の南に重臣屋敷。西側と北西部に武家屋敷。その北側と由良川の堤防に挟まれる地域に町人町、さらに北側に武家屋敷を配置した。城下町は京町・東長町・西長町・上柳町・鍛治町・上紺屋町・下紺屋町・下柳町・上新町・下新町・寺町・西町・呉服町・菱屋町・鋳物師町の15ヶ町からなっていた。 山陰道は由良川の堤防に沿って通し、呉服町・上下柳町などがあり、宿場町として発展し、本陣・脇本陣・旅籠があった。 元和6年(1620)有馬豊氏が筑後久留米に転封後は、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房と代わり、寛文9年(1669)常陸土浦の朽木氏が入部しようやく定着をみて明治維新まで続いた。 元治元年(1864)には家数979軒。慶安2年(1649)人数3,157人。天明8年(1788)人数3,303人・家数915軒。 福知山は城下町であると同時に、由良川の水運を利用した物資集散地としても機能した。「丹波誌」によると、船積荷物は日本海などからの魚介類に限らず、下り荷物は茶・草綿・漆の実・古着・米穀・油実類・紙草、上り荷物は米穀・酒・油粕・干肴・材木・薪などであった。 明治32年に大阪から福知山まで鉄道が開通し、同37年には東舞鶴まで延長されると、海産物は主として舞鶴から入るようになり、由良川水運は激減し、街道沿いの宿場も寂れた。 福知山の古い町並みを歩くと、城の北側に旧城下町の碁盤目状の町割りが当時のまま残っている。間口が狭く奥行きが長い町家の建物が続く。一般の古い町並みのような、格子・大戸・袖壁などを備えた間口の広い重厚な商家の建物でなく、庶民の住宅だったという印象が強い。 それならと、かっての裕福な地主や金融業を営んでいた豪商・問屋・卸商などが住んだ東長町や呉服町を訪ねたが、間口の広い家が点在するも、格子や大戸を備えた商家の建物は殆ど見られなかった。 京都府の地名 平凡社 中下邦彦 1981年 京都府の歴史散歩下 山川出版社 山本四郎 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 |
内記5丁目の町並み |
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北栄町の町並み |
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